論考紀要6 | |
薬師山考 |
―北秋田郡田代町「みつがしわ」に寄せて― |
鎌倉幕府成立から江戸幕府成立までのおよそ四百年間いわゆる中世の北秋田地方における歴史資料は極めて希薄である。 |
いわんや戦国時代に集中して論考されるべきは、更に困難である。 |
北秋田中世史を考察するとき避けて通れないのが浅利氏だが、その浅利氏の当地方への関わりを示す文献資料は更に少ない。そうした中で本稿は大胆無謀にもその地理的環境から浅利氏支配領域上、枢要な位置に存在したのではなかったかという仮説をもとにした私見の一端である。 |
甲斐源氏を祖とする浅利氏が当地方に縁を持ったのは奥州合戦終了後の文治五年(一一八九)で九月二十日の《吉書始め》すなわち論功行賞以降の地頭配置であるとされている。しかし、文治六年(一一九〇)三月十日の、大河兼任反乱の終結までは未だ奥州の治安は不穏であり、実際の任地着任がいつ頃だったかは定かではない。甲斐本国の他に比内郡を合わせ持ったことは疑う余地はないとしても、鎌倉期は武家社会の同族統制ともいうべき惣領制があり、本国管理が強く影響してか比内郡での去就が明白に残らなかったのだろう。 |
南北朝時代に入り惣領制が崩壊すると、それと符合するかのように比内郡においても浅利氏に関すると思われる歴史的な記述が断片的に現れ始める。 その痕跡をここに列挙してみよう。 |
@建武元年(一三三四)「津軽降人交名注進状」の浅利六郎四郎 清連なる浅利氏 |
A建武五年(一三三七)「浅利清連軍忠状」の同じく浅利源清連 |
B文和三年(一三五四)比内浅利氏惣領とみられる「沙弥浄光譲状書」の浅利氏 |
C応永年間(一三九四〜一四二八)「時宗過去帳」に阿号房号が記載された浅利氏 |
D同じく津軽浅瀬石城主千徳政久に女を嫁がせた比内郡浅利三郎清実なる人物(千徳氏文書) |
E嘉吉元年(一四四一)熊野詣でをした比内郡徳子(独狐)の浅利源遠江入道但阿弥と子息二位殿隆慶と称する浅利氏(米良文書) |
F「応仁二年(一四六八)羽州扇田住浅利勘兵衛則章」と記載された棺が江戸期の延享年間に二ツ井町荷上場の梅林寺境内から発掘された浅利氏 (『黒甜瑣語』) |
G永正元年(一五〇四)比内入部したであろうと想定された浅利氏(『長崎氏旧記)ただし長崎氏旧記の原本は所在不明 |
H大永五年(一五二五)湊安東氏修造男鹿本山棟札に大願主浅利朝臣源貞義の名前たる人物(市川・湊文書) |
I大館市下川沿の「佐藤文書」にある天文十九年(一五五〇) 浅利則頼分限帳から始まる浅利氏 (『秋田県史資料』) |
ここに列記された個々の浅利氏は必ずしも血脈の連綿性を語るものではないが、比内郡における覇権と権威は、連綿性は無いものおおかた比内浅利氏が握っていたことを物語るものには違いない。 |
なお残存する史料から推量して、大永・天文年間あたりに土豪浅利氏の勢力地図は頂点を迎え、その後永禄・天正年間に桧山安東氏らとの度重なる戦さに敗れて急速に衰微し、いよいよ慶長三年(一五九八)に惣領浅利頼平の急死で崩壊することになる。 |
先に挙げた十項目は、浅利史研究の上では常なる既出史料であるが、戦国大名として君臨した桧山安東氏(後に秋田氏)、津軽氏、南部氏に比べて極端に史料が少ないのは大名になれなかった浅利氏としては当然なことかも知れない。桧山安東氏は永正年中(一五〇四〜一五二一)までは桧山(能代市)進出は未だ果たしていない。(『新羅之記録』) |
一方系脈が同じ湊安東氏(土崎湊から男鹿半島へかけて勢力を張る)はそれ以前から秋田郡中央の支配権を掌握しており、自然浅利氏としては湊安東氏とは友好的立場を取っていたものと思われる。だが実はこの時期、浅利氏としては西方進出への千載一遇のチャンスだったにもかかわらず、能代沿岸方面への執着を示していない。 |
時を同じくして浅利氏比内入部説がささやかれるのも、何か問題を背負っていたのだろうか。海への憧憬、すなわち海運への展望の欠如は山間土豪の悲しさが為さしめたものだろうが、これが大名への道の分岐点であったと言っても過言ではない。なぜなら天文から永禄年間は、物流や文化の伝播手段として舟運から海運に主流が移りつつあった。ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたのは天文十二年で、国内でも永禄二年(一五五九)には廻船業も本格化しつつあり秋田から、新潟・敦賀への定期航路がすでに存在していた。(秋田間杉家文書) |
こうして経済も文化も産業も熟成と振興の恩恵に浴するようになり、急速に港湾経済圏と山間経済圏の格差が開いていくからである。戦国の世を端的に表現する言葉に「国破れて山河あり」がある。戦乱によって分国、すなわち人的領土支配が替わることがあっても、故郷の山や川はいつまでもそこにある。ということだが山は動かないまでも川は蛇行洪水氾濫によってその流れは変容する。「米代川流域の云々」はよく語られることだが、しかし本稿では、普段あまり語られることの少ない「山」について注目してみたいと思う。 |
現代も同様だが、戦国期で最も重要視されるべきは「情報」であった。甲斐軍団総帥の武田信玄が兵法の中で最も力を入れたものも情報であり、徳川家康の天下統一も情報が大きな力になったことは色々な史実に明かである。戦国時代の情報・伝達の手段として最も素朴で有効的なものは「狼煙」(のろし)であった。 |
なかでも武田信玄は、甲斐本国はもとより近隣の勢力地域に無類の狼煙情報ネットワークを構築していたといわれる。甲斐に発した浅利氏が比内の地で狼煙を駆使したとしても何の不思議もない。当時の浅利氏の厳密な国境の線引きは断定できないが、ともかく狼煙ネットワークの主な役割を果たしたのは、田代町外川原地内の通称「薬師山」だったのではないだろうかというのが冒頭に述べた私の仮説の本旨である。 |
浅利氏の保護のもとに、比内地方で熊野信仰や修験道(修験史料に関しては鷹巣町綴子神社の内館文庫に膨大な史料が保存されている)が隆盛を極め浸透していたことは塩谷順耳編『中世の秋田』に詳しい。そして修験者たちは加持祈祷のみではなく、当時としては極めて高度な技術をもつ集団でもあった。たたら(製鉄)もその一つまた情報の伝達や分析の能力を持っていた。 |
先述の「薬師」「熊野」が存在する田代町外川原字上屋布七八‐二辺りにそびえる「薬師山」が注目され、大館盆地麓西山系の突端にあたり米代川河畔に位置して、すこぶる判別し易い山で、標高一八五bだが鷹巣町綴子や大館真中地内からも遠望出来る。そこが私の仮説による浅利氏の情報ネットワークの中心とみたのである。 |
![]() 田代薬師山 |
@二ツ井町荷上場と小繋地内を望む鷹巣町「薬師山」(標高一五〇b)から田代町外川原「薬師山」までのライン。鷹巣薬師山からは田代薬師山の眺望は、はっきりと確認できる好位置関係にある。 |
![]() 鷹巣薬師山から田代薬師山を望む |
![]() 鷹巣薬師山 |
A田代町「薬師山」から大館市片山地内通称「二ツ山」(標高一二六b)(薬師の名は確認できないが大館市教委板橋範芳氏らの発掘で麓に中世時期の集落群があったとの説明)までのライン。 |
![]() 大館薬師山か |
B比内町扇田、通称達子森(薬師がある)(標高二〇七b) |
![]() 比内薬師山(達子森) |
C八木橋「薬師山」(標高三一三b)、板戸「長者森」(標高二一六b)、は中継点と考える。 |
D山容が特異な八木橋薬師山と板戸長者森の二山の一直線延長上には浅利氏の拠点があった独狐城趾がある。 |
![]() 八木橋薬師山 |
E大館二ツ山と扇田達子森の延長線上に扇田長岡城趾と独狐城趾が存在するのは偶然の所産とは思えない。 |
F大館二ツ山からは浅利氏の古い拠点である花岡城趾も手に取るように眺望できる。すなわち田代町外川原薬師山と大館二ツ山を中心に、比内郡には@からFのような浅利氏の領土を瞬時にフルカバー出来るだけの通信塔があったのではないかという想定である。 |
また外川原の薬師山は岩瀬沢沿いの田代町山田裏山茂屋方山(薬師)からも確認出来、山田村の地理的存在は奥狭の全く孤立した立地環境ではなく大館市花岡、同川口の寄せ手と搦め手的要素を包含した自然の要害地であった。こうした狼煙台通信網が実際存在したという確証史料は無いが、実証的な条件を満たすならば戦国浅利氏も領土管理手段として当然設置したであろうことは疑いない。情報は最大の攻撃要素であり、最強の防御システムである。情報の基本は文字だが、文字文化については戦国期すでに日本全国均一化といえるほど進んでいて、北海道から九州まで文字のくずし方が、個人の癖は多少あるにせよ、その筆態が全く同じなのである。その伝播力を考えると、武田信玄が用いた通信ネットワークを田代町外川原の「薬師山」を中心機軸に戦国浅利氏が十分に駆使したと考えてもおかしくはない。 山容の写真をみて気にかかった方もいると思うが、どの薬師山もピラミット状の形態でクロマンタ(花輪黒又山)に似て古代山岳祭祀信仰で語られる山が多い。山田柏木の月山は象徴的で幻の様相がある。 |
こうした実証論も『奥羽永慶軍記』のような軍記物とは別扱いの史的解明が必要であろう。また薬師と霊山や修験に関する論考は後に待ちたい。鳳凰山(旧玉林寺跡)から西望すれば二ツ山とこの薬師山が並立遠望が出来ることの意味を後日考証したい。 |
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