論考紀要5 | |
沈黙の論断 |
―大島正隆論文に寄せて― |
はじめに |
北奥羽の中世歴史研究の上で傑出した論文を残されたのが、東北帝国大学法文学部国史研究室奥羽史料調査部の大島正隆氏である。北奥羽つまり、北秋田をも包含した近隣の青森、岩手の戦国織豊時代の歴史推移を凝視した先駆者がこの大島氏であり、氏の一九四二年(昭和十七)に発表した「北奥大名領成立過程の一断面」は五十数年経った今でさえ少しも色あせてはいない。 |
大島氏は一九四四年(昭和十九)三十四才の若さで他界されたが、特に秋田安東、浅利、南部氏の中世史料を比較精査し、かつ学理的批正を施し鋭く正史に迫ろうとする姿勢は中世から近世に形成移乗する時代の転換を見事に浮き彫りにした労作として多くの研究者に認められている。かつ未だ、それを越える者が居ない状況にあり、その基礎論文の序の一節に『辺境の小土豪の如きの興亡は郷土を愛する郷土史家の手に委ねられるべきだ。』との氏の基本理念を知ることができる。特に注目されるべきは「奥羽永慶軍記」戸部正直著の歴史 史料としての曖昧性や信頼性に疑問ありと力説され、その引用を厳しく忠言されていること。 |
また浅利氏関連の記録「浅利氏由緒書」「浅利軍記」「長崎氏旧記」等への記述において信頼をおけるのは浅利頼平一代についてのみとしている点である。浅利則頼以前、勝頼の代までの事象を裏付ける古文書が皆無である弱みを指摘されている。 |
さて一般に多くの論文は永く読者の目に触れ理解され、その論文の内容が素晴らしい程読者に既成概念として記憶され、論者の私論推定や読者の解釈要求部分以外の断定的提示部分は無抵抗に理解されることの文章の怖さを知らなければいけない。 |
浅利頼平の死をめぐって |
慶長三年(一五九八)秋田中央部に君臨し始めた秋田安東実季と比内浅利氏は税(物成)の取り立て問題で争い上方での評定(裁判)を受ける事になる。ところが陳情と裁定を受ける為に大坂へ登った比内浅利氏惣領の頼平が評定を待たずして急死するが後年その死因は毒殺ではないかと風聞が流れる。この頼平の死によって浅利氏の瓦解が始まり一族は四散するが、この大坂での謀殺は浅利牛欄(本名政吉、通称金助、長兵衛、官途名兵庫介、牛欄は江戸慶長期に入ってからの隠居名だがわかりやすいように以降は牛欄と呼称する)らの主謀とする安東氏への寝返りとの見解で事件の結末が先の大島論文の最後に記述されているが、最近の研究によって牛欄の事件関与説の信憑性が崩れてきている。 |
まず天正十年十月十九日付け織田信高(織田信長七男)が浅利兵庫介(牛欄)宛の書状(鷹匠への内容)の中で『領知弐千貫遣候上者全可令知行事』と触れている。(領知、知行)の文字から当時織田信高に鷹飼として仕官していることは確かであり、同年六月十日本能寺で父信長が逝去したが、当時牛欄は安土城に居り蒲生賢秀とその子蒲生氏郷と共に信長妻子の日野城への避難に助力しているが、主家比内浅利氏を離れたのは永禄五年の次期比内浅利当主と目されていた牛欄自身の血縁関係にある浅利則祐の死後ではないかと思われる。 |
天正十年五月十七日には比内宗主浅利勝頼は檜山安東愛季の謀略で浅利家臣の生内(池内)権助に刺殺されていて浅利氏は比内郡での覇権を失いかけている。一方、牛欄は天正十三年十月三日津田小八郎(秀吉近臣武将)氏へ鷹飼灌頂の十二巻の免許相伝をしているからこの間は津田氏の動向から上方に在居していたのは疑いない。しかも天正二十年(文禄元年)牛欄は蒲生氏郷から知行の加増百石を得ている書状が存在するが、この加増の宛行からして蒲生家に鷹匠として仕官従属していることを確実に証明している。 |
牛欄冤罪 |
その三年後、秋田安東氏方の記録に文禄四年浅利おとな一家衆三人『中野城 片山弥伝彦四郎、八木橋
浅利伝兵衛内膳、十二所 浅利七兵衛』らが秋田方へ寝返ったとするものがある。
まずこの八木橋浅利氏を名乗る伝兵衛内膳は確かに浅利牛欄でも子でもない。 なぜなら牛欄らが浅利家没落後、横手にて佐竹氏へ仕官した後の慶長七年大館村の一揆勢の中にこの浅利伝兵衛某の人物名を読みとれるからでもある。
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ところで、頼平が大坂で死去した三年後の慶長六年五月二十七日の安東実季の安堵状で先の三人(寝返り者)が黒印、青印書でそれぞれ安堵されている。『片山彦四郎一〇七七石 八木橋三六 六四四石 十二所七兵衛六〇〇石 等々』この禄高からして八木橋三六某が先の浅利伝兵衛内膳かその子孫とみて間違いない。こうした中で牛欄は安東氏からの禄高安堵は一切受けていない。おとな三人衆の寝返ったとする文禄四年(一五九五)八月二十七日に会津蒲生氏『文禄四年秋分御倉入御米売銭請取日記』の払方に「拾五貫九百文(浅利民部少輔殿へ金子壱枚被遣代当秋若鷹四ツ可被相渡由」浅利金介ニ渡」の記録が残っているがこの民部少輔は浅利勝頼(民部大輔、既に没している)ではない。 |
ここで注意しておきたいのは蒲生氏は天正十年の本能寺の事件までは織田政権の中で次期首領と目されるほどの知才を兼ね備えた信長の娘婿ということで、浅利氏が接近し工作するだけの価値があるだけの地位にあったということは重要である。慶長三年、主家没落直後牛欄は浅利頼平の妻子頼治(後に改名 広治)や一族血縁の数郎と共に横手に流落し、その後慶長七年牛欄旧知の佐竹家老に抜擢されていた旧須賀川の須田城主須田美濃守盛秀に拾われ佐竹家に仕官の途を許され横手城下でそれぞれ家禄を得るのである。 |
これらの反証によって牛欄が、安東実季から主君頼平の謀殺事件に関与したとするならば、その論功行賞と思われる領地安堵等や官位保証を得ているはずだし、ましてや慶長三年以降の頼平妻子や縁故の浅利家士らと共に流浪流落する必要はないはずである。特に牛欄に反逆の疑いと風聞があったならば彼らは同伴逃避行するはずは無かっただろう。 |
先の大島正隆論文による事件関与の記述に見られる実行者杉澤喜助の表記が『浅利牛欄家臣杉澤喜助と』しているが、この表現がいかにも牛欄自身直接的な命令上司であるが如き誤解を生じさせ、事件への包括的関与説がこの不用意な解釈により、彼の立場が決められてしまったものと考えられるし、大島氏自身もそのような解釈と記述を残していることは事の重大さの探求不足と言わざるを得ない。 |
つまり、『牛欄の家臣だった杉澤喜助』が『牛欄と家臣杉澤喜助』という解釈を導くものだからだ。風説の流布はなかっただろうが、誤説は史実を大きく支配するものである。
以上の実証を勘案して、牛欄の秋田方への寝返り、浅利主家への反逆関与は考えられるすべての必要十分条件を満たしていない。
重ねて牛欄は秋田安東氏からなんらの論功行賞を得ておらず、いままでの主君浅利頼平に対する謀殺関与説は論拠の根幹をまったく失うものである。こうした影響は「秋田書画人伝」井上隆明著やさきがけ人物論評等で牛欄を戦国波乱の武将と表現させ、主家を裏切った節操の無い人物(下克上だから仕方がないと弁明はしてくれているが)とまで断言させている。しかし浅利安東の文禄慶長の物成騒動では中央政権に執り成し、浅野長政(秀吉正室ねねの義兄)を
擁立して安東氏に対して浅利氏優位に事を進行させたのは牛欄以外にはいない。鷹匠としての地位が交友をもたらしたものである。
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そうした牛欄は鷹絵を自らの筆で残したとされているが、本当に鷹を小手に据えて鷹のすべてを知り尽くさなければ描けないようなリアルな鷹の羽毛を表現し、しかもその羽の状態は、鷹を調教するうえで一番調教し易い時期の幼鷹であり、単なる実物の模写の鷹絵ではないことを鷹飼いの専門家が強く指摘し驚いている。 |
おわりに |
故人や歴史人物は沈黙して語らずとも歴史事象としての歴史事実はその多くを物語ることが分かる。沈黙の論断とは、かかる事象や人物の歴史上での史実確証が無いからといって、その事実は無かったものだと断定することの危険を戒める歴史研究者への教訓である。事実は必ずしも真実であるとは限らず、裏に取り巻く多くの因果関係で左右されるが正史はいつか必ず明らかになるものである。古い歴史はいつも新しい、歴史の真相は視点の角度で常に千変万化するもので絶対はない。また歴史文書の表現は現実投射という意味で確かな重みで影響力を残すものである。 |
《文献史料》
『大日本人名辞典』 浅利政吉の項
『古画備考』巻2 朝岡興禎 著 嘉永3年
○画家 字は金助 蒲生家に吏ふ、常に画書を好み寝食を
忘る巧みに土岐の風格を具へ、岩樹も趣きあり。
天正の頃の人
『扶桑名画伝』 史料大観から (扶桑画人伝) 『続本朝画史』 皇朝名画拾集から
『秋田近世前期人名辞典1』秋田姓氏家系研究会発刊所収
○ 浅利牛欄
牛欄は何れの人たるを知らず。名 政吉 通称 金助
初め蒲生氏郷に仕えて武名あり、又放鷹の技に長す。
曽て織田信長公に謁す。 信長公其技を賞して鷹の餌箱を賜う。今尚浅利家の重宝として伝 わる。蒲生家滅亡の後 来たりて須田美濃盛秀に頼る。』 『 盛秀の推挙に依りて佐竹家に仕え横手に居住す。 専ら放鷹の事に與かる。鷹の飼養法十二巻を著はす。
惜哉戊辰兵乱の際之を失ふと云。又常に図書を好みて寝食
を忘る。殊に鷹画を善くし、土岐の風格あり、寛永年中八十余才にて没す。 』 (平鹿名士遺墨)
『 ○ 門脇典膳の子。
湊友季の未亡人松の方を娶り浅利家を嗣ぎ八木橋
城主となる。名は政吉、また金助と称す。蒲生氏及び織田氏に仕え鷹の餌箱を与えらる。須賀川にて佐竹義宣に謁見し来たりて横手に住す。鷹の飼養法に巧みにして鷹の画に妙なり。「鷹飼養法」十二巻の著あり。寛永年中没す。年八十四。』
(秋田英名録)(秋田古代中世人名辞典)
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