論考紀要1 | |
鎌倉幕府成立前夜の邂逅(かいこう) |
=大河兼任を人間科学する= | |
はじめに | |
秋田県史の中で最も興味を惹かれるのは「大河次郎兼任」という人物である。 そして最も判らないのが比内郡「河田次郎某」ではないかと最近考えている。両人ともその出自の確証は皆無で、初見の『吾妻鏡』という史料が特筆され、常に歴史研究者や郷土史愛好家に引用され記述される人物である。 『吾妻鏡』は一般に一級史料に近いと評価され、多勢に信頼され受け入れられているものであるが、全面的な信奉はボタンの掛け違いがおこるとも限らない。何故なら中央史観と奥州勢力に対する勝者という視点が見受けられ、公平さに欠ける点があるのではないかとする危惧があるからである。 それならば奥州在地の大河兼任や河田次郎の人間的歴史観を正確に史実として伝えているものだろうか、という個人的疑心暗鬼でそれぞれの人的環境とその行動意識を科学して見る必要性があるのではなかろうか。 |
奥州合戦での立場 |
文治5年(1189)7月義経と平泉藤原氏を抹殺し全国を平定する目的で奥州に仕掛けた頼朝は、ほんの短時間で奥州を席巻し凱旋するが、言い換えれば、一連の事件の中でそれらの酸化触媒となったのが比内郡の河田次郎であり、それを還元しようとしたのが大河次郎兼任であったというそれぞれの立場をすみわけしてみよう。 大河兼任は当初、〔現五城目大川から南秋田郡大河〕とか〔出羽山北(仙北)に起つ〕等と推定され平泉藤原氏傘下の勢力と考えられたが、奥州合戦では日和見的立場をとりこの戦局をただ傍観していたようで、戦後の論功行賞で配置された受領(ずりょうと読み、直接任地に赴き支配すること)地頭体制に反抗して蜂起した反乱の煽動、指導者と見られてきた。しかし面白いことに相反する結果の行動をした河田次郎もこの合戦を中立の域を出ない行動しか取っていないのである。 河田次郎、大河兼任らが平泉藤原氏数代の郎従だという断定は、あくまでも勝者鎌倉史観であって、強いて言うならば、吾妻鏡の編者が結果から導いた先入観からの断定ではなかったろうか。 例えば以前までは〔奥州征伐〕であった呼称が〔奥州合戦〕と見直され、現在では〔奥州侵略〕になりつつあることからしても、視点観点が違うと認識もこのように変わったものになるからだ。 そうした思考基盤をゼロレベルにして、大河兼任の立場を公平に考証してみよう。 |
吾妻鏡からの事象 |
まず『吾妻鏡』文治5年12月23日の条に次ぎの記載がある。 要約すると「奥州から飛脚が到来し、義経や木曾義仲と秀衡の息子達が合力して蜂起し鎌倉へ進軍しようとしているようだ。」と鎌倉に電撃が走る。説明するまでもなく、義経はすでにこの時点で平泉で死んでいるとされ、かつ秀衡の息子すなわち泰衡と思われる人物も比内郡で河田次郎に討たれているのは周知の事実となっているのである。にもかかわらず、ここでは堂々と飛脚は反乱の報をかくの如く述べているのである。 世に言う【大河次郎兼任の乱】の始まりなのだが、この事件の展開が興味深い。ひとまずこの反乱軍とされている集団を敢えて兼任軍と呼ぶが、緒戦 小鹿嶋(現男鹿)の橘氏に勝利し、次ぎに毛々左田(現新屋)へ進出して由利氏を討ち、急遽反転し北進しているが『吾妻鏡』には出羽海辺庄(あまべ)に進出しては、「自分は伊豫守義経と号し、左馬頭義仲の嫡男朝日冠者と称したり」と特記している。 北転した兼任軍は鎌倉御家人の重鎮、津軽宇佐美氏を倒し、破竹の勢いでUターンし衣河へ。平泉へ出る頃は一万余の叛徒となるが文治6年3月10日付けで、派遣軍に破れ敗走し、栗原寺山中で樵夫(きこり)に惨殺される。事象をわかりやすく概説したがこれは、あくまでも『吾妻鏡』による飛脚の伝である。 |
兼任軍の考証 |
この顛末の不可思議な点を箇条書きにすると @蜂起が旧暦12月、1月で秋田では新暦の厳寒期であること。 A7000人に近い大軍が大潟(八郎潟)の氷の上を渡り5000 人余が破氷の為に溺死したこと。 B叛徒の推定進軍順路。 C反乱蜂起の理由。 D国衙の役人らが同調したこと。 E偽称をする必然性。 こうした疑問は大河兼任という人間を科学する上で重要な推理を与えてくれるし、歴史的パラドックスとしての要因をも暗示するものではないだろうか。 @時候へのこだわり とにかく日本合戦史上でこの様な厳寒期の真っ直中の深雪期に挙兵し、縦横無尽に行動する軍勢は、空前絶後、兼任軍だけではないだろうか。東北、特に秋田での厳寒期は生存(衣食住)そのものすら大変過酷な環境を呈するのである。その上由利氏を除いた新来着の地頭代や関東からの援軍は、秋田の厳冬を知り尽くしてはいないし、耐寒対応もすぐは出来ないだろう。そういった時期に敢えて決断し蜂起行動した彼の策謀だとしたら、感慨を禁じ得ないのは、私たちが雪国育ちのせいだけだろうか。 特に当時の深雪に関してはCで後述する。 A志加渡あれこれ 7000人近い兼任軍が小鹿嶋の橘氏討伐後、八郎潟の氷上を渡り、破氷でそのほとんどの戦力を失ったとする記事は、その根拠を得ていない。史実であればその時点で壊滅鎮圧できよう、そして事実ならば鎌倉側にとっての戦意高揚になる。戦局報告は太平洋戦争の大本営発表の敵国損害誇張とよく似ているような気がしないでもない。秋田では氷のことを「しがっこ」と言い、「志加っこ渡り」が、「鹿渡」となり現地名に残ったものだろうが、 歴史地理学上からは適所だろう。 (大日本地名辞書) B進軍順路の謎 特に兼任軍の進路は一番の関心事である。東大史料編纂所の大日本史料を基に編纂した秋田県史「資料 古代 中世」や、「中世の秋田」、その他の関係市町村史は、ほとんどが異口同音に同じ進路を想定している。ここで注目したいのが、津軽(現大鰐)への進軍往復経路である比内大館地方は、当然の如くこの事件の数カ月前は泰衡が逃避行し、惨殺された一大舞台であり、この当時はもう要衝の地、肥内(比内)郡 贄の柵として認められていたことだ。しかし奥州合戦後の吉書始めの論功行賞で肥内、上津野、千福(山北)、等の要地を拝賜したであろう鎌倉御家人の地頭らの動向がまったく無い。なかんずく肥内郡には、受領地頭か遥任(ようにん)代官がすぐに派遣されて居たはずである。 何故なら小鹿嶋の橘氏や津軽の宇佐美氏等の論功行賞に依る地頭宛行がすでにあった状況を踏まえ、他の郡(糠部 南部氏他)地域が吾妻鏡に、実名記入されない論功行賞を以て、地頭不在とするのは当時の恩賜を受けるべき豪将がいかに多かったか、という状況と論功地頭が配置されるべき時期を解釈説明していない。 また12月23日、小諸光兼、佐々木盛綱らの越後信濃勢が北陸道から派遣沙汰され、続く24日、工藤行光、由利維平らの奥州に領地のある御家人に総動員の命令が下されているが、やはり受領、遥任の雑多なことが窺える。ともすれば兼任軍の大軍が経由した場合は、何らかの摩擦や同調らしき痕跡は必ず残るはずの大事件なのである。さしたる抵抗か、加勢の形跡もなく簡単に通過できる要地ではないはずだから比内浅利氏の遙任が考えられる。名目的には鎌倉へ進発したはずの兼任軍は何故に北進して津軽(現大鰐あたり)まで行き宇佐美平次実政を討たねばならなかったのだろうか。宇佐美氏は津軽に所領を拝しただろうが、必ずしも津軽で討死にしたとは断定はできない。各市町村史は【後陣の安全確保の為】の北進宇佐美氏討ちと見ているが、不自然な行動と思わざるを得ない。 ここで敢えて推論するならば小勢だが、追討軍たる近隣の御家人衆と南下移動した対峙中に襲われたとするのが妥当ではなかろうか。とすれば大鰐方面から比内郡を経由して南下する際は必ずや比内浅利氏か浅利氏代官等と合力してその任に当たったのが当然だろう。なぜならこれ以前、頼朝は乱鎮圧に対する諸将の心構え(先陣争い、抜け駆けの功名狙い、単独行動)等の抑制を示し、全員合力してあたる様に下知している。 兼任軍の襲撃を受けない限りは搦め手か、戦闘回避を全うしているのかも知れないが、援軍加勢対処中は別なのである。 また冬季の進軍にしては、兼任軍の動線の範囲が広すぎ、どうも動き過ぎの感が否めない。吾妻鏡の編者も早馬の飛脚の伝言を取り違えたか、奥州、特に陸奥や出羽に対する地理尺度感覚の違いからのものではなかっただろうか。 峠のような分水嶺を最低5、6回は通過している事、先に疑問を投げかけた津軽進出への無駄な往復、敗走中の外ケ浜と糠部の間(現青森浅虫辺)への逃避、そして再度南下行、等は現在の交通機関でも冬期間は大変な行程であることだ。 以上の疑問は3ケ月にも及ぶ、合戦、逃避、の逆算から導かれた順路であり、気候の変化を侮っている推定仮説に他ならない。 C蜂起目的の解釈 奥州支配は平泉藤原氏から鎌倉幕府に移行しても、頼朝は管理方法は『旧来通りに遂行せよ』と下知している。したがって大きな社会変化すなわち急増なる税や賦役、治安は藤原氏時代より大きく瓦解したとは考えにくい。新地頭体制に対する単なる不満での蜂起であれば、その結果は当然合戦以前に判っていることで、藤原氏へ早い時期に帰順し参戦、加担しなければならないはずだ。まして苛政批判での鎌倉への反旗勃興とするならば、そのタイミングは逆に【早すぎる】感がある。 従って大河兼任は藤原氏の【数代の郎従】という程の関係ではなく、かなり独立した勢力キャパシティーを保持していたのではないか、という推論が生まれる。勿論『河田次郎』もその限りではなかったろう。ただこの年は大変な凶作だったらしく、その上、奥州合戦の後遺症が残り来年の農籾や種子を山北、秋田郡から陸奥和賀地方等へ、送る事を頼朝が奥州奉行の葛西清重に命じている。 またこの文治5年11月8日の仰付けの行に次ぎの様な記載がある。「この沙汰は近日中に為されるべきといえども、大変な深雪で明春3月中に施行」と当時の気候を克明に注釈している。この事からも先のB順路の考察も肯定しうる状況で、要するに秋田から岩手への峠越えの運搬はとても大変だと報告しているのだ。 よって籾や種子を大量に召上られる事は必至で、不作に召上という指令伝達の不備か伝達内容の誤解、不安と不満が蜂起の直接的要因であったとも考えられよう。 また兼任が由利氏への使者を送り「昔から近親の仇を取った者はいるが、いまだ、主人の仇を取った例はないが、自分がその例をはじめて為す」と豪語したとある。 作為的な大義名分とする視点で考えないまでも、頼朝が成敗後の面目は成立する。 D国衙の動向 多賀城国府の新留守所、本留守共に罷免したのは、脅徒を許したからだとある。兼任と同意の罪科有ると判断されたのは、果たして何の意図で何を許し兼任軍の叛徒に同調したのか、全く不明である。しかし、罷免されたからにはこの事件での重要な鍵が隠されているのではないだろうか。兼任軍に体制下で制圧に廻るべき役人が同調する等は、尋常では考えられない。 しいて考えるなら奥州惣奉行葛西氏との折り合いがうまく行かず、葛西氏の讒言があったかは、推測の域を出ない。 いずれ、各諸将の発奮を意識したものか、兼任軍を途中、見逃したか行方不明にした責任ではなかったろうか。 E偽称の意味 自らを「義経、義仲の息子」等と称する必要性は何だったのだろうか。明らかに吾妻鏡の飛脚伝、すなわち奥州在野の御家人か国衙の役人から発信された情報であり、その実情は葛西清重奥州奉行に伝わり、慌てて上奏したものであろう。 「判官びいき」という人気をうまく利用して民心を得、兼任軍を一万余の大軍団にまで育てた手法は、とにかくしたたかと言うほかは無い。どちらも頼朝の怨敵であり、その裏には、今でも義経北行伝説がある如く、生存の疑心や願望が根強く残っていたからだろう。 修験超人 役小角(えんのおづぬ)の様な神憑り的な呪術もどきを駆使しただろうが、詭弁(きべん)、饒舌(じょうぜつ)を弄(ろう)した類とはまったく袂(たもと)を分かつものだ。憧人【義経】を英雄伝説的発想で語り、勇軍を正統化する為の自己暗示をからめた誇張表現として活用した様な気がする。修験道の引用は、義経が幼少時に居た鞍馬山は本尊魔王尊で、牛若丸に武術を教えたという僧正坊は、有名な修験八天狗といわれた中の一人であること。義経一党が逃走の時の変装が修験山伏姿であったこと。また兼任が敢えて義経の名を標榜したこと。 出羽国海辺(現山形庄内)に出没したとする兼任が目的とするならば、その辺境は出羽三山の山伏修験領域だったこと。また山伏修験者は山人職能力者との接点が多く、金属採掘やたたら師、金属加工者等の特殊技能力者との関係が深いので鉄、金が入手し易く黄金の太刀や武器との引合いがあることからの連想である。 千変万化する冬将軍との戦いは、ある程度の一般人を越えた能力を保持する者達の 集団だったと思われる。兼任軍への戦後処理からして宗教色は前面に出てはいないが、多分にそうした、神通力と神霊力を備えた行者や、今、テクノクラートと言われるような人達も多く含まれていただろう。 |
総括 |
兼任の通字「任」は安倍氏系に多い。従って平泉藤原氏の一族で数代に遡り、郎党か血族と認識されても不思議はない。平泉藤原氏が28万余の大軍を手にしたことを差し引いても、短期間で敗走したのに比べ、烏合の衆に近い兼任軍は3ケ月間も追討軍を手こずらせている原動力となったものは何だったろうか。 元慶の乱等にみるように、秋田地方で勃発する乱行は、至極、動機が単純である。風土的に純粋な秋田地方人は、朴訥であり、熱血である。少なくとも大河次郎兼任は単なる反乱不穏分子として処理されてはいるが、大きな時代の流れを包含し、民意を咀嚼し、行動した棟梁だったと思わざるを得ない。 農民を主体とする軍団は局地的ゲリラ戦は強いが、さすがに百戦錬磨の武将率いる連合軍には歯が立たなかったが、後世の九戸政実にも勝る大戦略は秋田県人の粘り強さの誇りであり、表現力の乏しい純朴さを超越した見本である。 また進軍経路に関して津軽北進しての宇佐美討ちは微妙である。 大軍団の比内郡通過は無く、比内、鹿角等の地頭、地頭代の去就が出てこないのだろう。 また豪雪に伴う寒気と俄に解ける大潟の氷の事件の対比も気象学の分野で微妙である。深雪の中をひた走る兼任軍と雪に困惑する追討軍の様は吾妻鏡の上で至極、弁解めいている。 シンボリックな呼応で立ち上がった兼任も偽称の固持からか、錦織の臑(すね)当て、黄金の太刀を佩(は)くという風体が返って致命傷となってしまったことは皮肉ではあるが、兼任自身は政治的野望とは縁が遠く、農民の主張を旗印に奮起したが、結局は鎌倉新体制に挑戦した名目になってしまった。 |
おわりに |
古代から中世への移行しようとする時代の潮流の上で、みちのくの冬空に彗星の如く一閃の煌めきを残し散った大河次郎兼任は、肥内(比内)、上津野(鹿角)の時代動静のみならず日本の通史を考証する上での重要な事件の中心を為し、武家政治の幕開けを阻止しようとしながら幕引き人をしてしまったという皮肉な運命ではあるが、比内郡贄の柵主河田次郎と同じく中世史上の人間科学をする上で傑出した人物の範疇に入るのではないだろうか。 |