論考紀要4 | |
もうひとつの大館 |
= 新田彦次郎政持の考証から = |
小井川潤次郎著國書刊行会発刊の『大館村誌』は、昭和三十三年に大館村が現在の八戸市と町村合併するに当たり【大館村】を永く顕彰記念する為に編纂された郷土史のことである。また著者の小井川氏は、かの日本民俗学の権威であるところの柳田国男氏とは親交が深いうえに歴史学者としても真摯な研究が高く評価されている。 ところで当大館市の市名『大館』の由来については諸説があるようだが昭和十年に大館史談会の佐々木兵一代表発刊の【大館叢書巻弐】に所収に次のような記事が見える。 《旧記に曰く米代川渡りて大楯の里に近しとあり。 案するに大楯は安部の頃大なる館を築きて河田次郎を居らせしむ。 その節大楯を大館と改めしとか。民俗今に大だてとばかり唱ふ。これ大楯の通言ならん。》 ここでいう『旧記』は佐々木氏が編纂当時数種あったらしく本叢書の凡例の上で述べている《文化八年の頃、菅江真澄が読んだであろう旧記》いわゆる「或旧記に云・」と記した旧記との両者はまったく同一かどうかはわからないが、いずれ大館に関する同じ内容の古記録の類だろうという見解である。 しかし昭和十年の佐々木氏の編纂時に数種の伝写本である原本があったことは確かで、作者及び作成年代が不詳であり、一級史料ともいえないだろうが今もって行方不明で所在がわからないのは誠に残念なことである。 まずこの『旧記』の信憑性を度外視して、記事を検討してみると《大楯》は現在の《大館》の近くにあり、しかも作者の風聞で比内郡の宗主である河田次郎が大きなる館(柵か)を築いて居住したのではないかと推論したようである。 その上、米代川を渡るとある《大楯》はどちらにありどちらから渡るのか明記は無いがしだいに大楯を大館と言い換えられて来たのだろうという解釈が出来よう。 この『旧記』のみで判断するのは早計であるが、その範疇のみで考察するならば《大楯》は吾妻鏡に初見の河田次郎の居住地である《贄の柵》ということになる。 こうした河田次郎の時代から一五〇年近く経った室町建武年間に、歴史や郷土史に興味を持ち学んだ人なら周知の『岩手県中世文書 上巻』所収 浅利清連注進状(遠野南部文書)という古文書があるが、この中に浅利六郎四郎清連が曾我太郎貞光らと合力し《比内郡凶徒 新田彦次郎政持》や鹿角郡國代成田小次郎頼時らを誅伐退治した事を軍功として足利幕府に上進した内容が認められている。 浅利六郎四郎清連注進状はいわゆる軍忠状で、鎌倉から戦国期にかけて戦闘や合戦で挙げた軍功、忠節を軍〔いくさ〕奉行に上奏し幕府の承認をもらい論功行賞の証拠文書となるものだが、それだけならただの軍忠状で済んでいた。 なぜなら当時の様式からすれば受理した奉行所は文書の奥(端)か裏に証判《了承判》をして返却するものであるが、この注進状には了承花押〔かおう〕も一見了〔いっけんおわんぬ〕承了〔うけたまわりおわんぬ〕が無いのである。 すなわち不受理の状態であるか、俗な言葉でいうなら、『にぎりつぶし』という様な結果になったものなのであろう。 このような見方をすれば、建武年間における北奥の武家社会の勢力地図をそのまま、うかがい知ることが出来る証拠文書ともいえるだろう。北畠国宣を頂点とする南部氏の確固たる大名への基礎がこの頃から着々と出来つつあり、比内大館地方に大名として君臨し得なかった浅利氏との比較ではこの時期が大きな分岐点であったのではなかろうか。 さてこの注進状に出てくる《新田彦次郎政持》であるが南部六郎政長の二男で建武年間すでに在城の新田(現八戸)に居城していただろうと思われるが、この新田名はニッタとは呼ばず《ニイダ》と発音するのである。しかもその《ニイダ彦次郎政持》は比内郡との接点を持ち凶徒と呼ばれるだけの時期を有するのである。その《ニイダ》は現在八戸市新井田地区と呼ばれ昭和三三年までは何故か《大館村》として存続し、その新井田城跡には新井田小学校があり、近くには大館中学校が置かれている。 私が訪ねた平成六年十月二日は奇しくも新田城まつりが開催されて賑わい城跡で大会委員長の正部家氏に偶然にも声を掛けられたのには驚いた。 余談ではあるが、先年大館鳳鳴高校の野球部が秋の東北大会で一回戦優勝候補の呼び声が高かった地元八戸工大一高との大熱戦の末、勝利を収めた八戸市東公園野球場のすぐ百M隣が大館村であり、大会当時の記憶が彷彿し歴史の流れを感じさせられた。 また建武三年の浅利清連注進状の二年前の元弘四年(一三三四)に比内郡の南河内(米代川南側とおもわれる)に北畠顕家が國宣を発し南部師行に大田孫太郎行綱の代に大田行俊を赴かせる。この大田氏はその後の行動は謎ではあるが、もし強大な軍事力を背景に館(大田館とでもしておこう)を構築したならばその大田館が言慣わされて大館になった可能性もなくは無い。 この《大館村》《新田氏》《新井田》《比内凶徒》《二井田》《大楯》《大館》等の呼称を『偶発的な発生』として単に地理学的処理だけでいいものか、関連性を如何にするか、非常なる興味を覚えるのである。ちなみに小井川氏も《大館村誌》の新田彦次郎政持の項で、新田氏の大館の南にある二井田村への関与を本書の中で諮詢している。尚この新田氏に関しては足利時代から綿々と江戸時代まで十二代 三百年間にわたり新田城に君臨したため資史料が明確に残り、新田氏に対する顕彰観が地元に今でも強く残っているため今日の新田城まつりが復興したものであろう。しかも寛永四年に新田氏の遠野へ転封したことにより当該の注進状が遠野南部文書の中に残ったものだろう。 『大館村誌』を読んで痛感したことはその内容に見慣れた地名が出て来る事である。大館、ニイダ、長根、田面木、大茂館、ダイノ、松館、古館、大明神、新井田川の上流は鷹の巣川、大館村の隣接に蟹澤、細越、浄光田、等々が所見される。 特に大館市有浦近郊に広大な大田面という字名があり沙弥浄光譲状という古文書の分析から考察しても鷹巣地方にもその痕跡が今でも見られることから南部氏族の影響は非常に大きいと見るべきである。 全国の地名を検索してみると自治体名では《大館》は当大館市のみで秋田県稲川町の大字名で大館があるが平城跡の字名であるという。したがって昭和三十三年迄の自治体名で《大館村》と《大館市》はまちがいなく姉妹自治体であり、少なからずどちらから見ても『もうひとつの大館』といえるだろう。 昨今は大河ドラマの影響か歴史ブームのようであるが、只残念なことにドラマはあくまでドラマであり、すべてが事実であるかのように錯覚を与える様な描写があり、史実の多くを必ずしも伝えてはいない。 また年号の暗記のみが歴史学ではない。過去の歴史にイマジネーションを働かせ正史の事象と関連させ実証する方法論もまた一つの手法として歴史を学ぶ楽しい出会いを増幅するだろう。 『もうひとつの大館』に思いを馳せて筆を置く。 |
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