論考紀要2
甲冑秘話
−伊予大三島宮の国宝に見る−
はじめに
 世界の有史以来、戦乱の歴史に、またその興亡盛衰に関与して発達してきたものが『兵器』である。兵器は攻撃するものと防御するものとに大別される。特に日本における後者は『甲冑』(かっちゅう)と呼ばれ、鎧(よろい)、兜(かぶと)で代表される護身装具は平安中期から江戸初期の間にそれぞれの時代、文化、風土の中で変化発展を遂げて来たのである。その鎧の中に極めて注目されるものがある。国宝伝源義経奉納とされる赤絲威鎧である。
検証の意義 
現在、日本の甲冑における国宝の8割が瀬戸内の伊予大三島「大山祗神社」(おおやまずみじんじゃ)に保存されていて、その多くが奉納されたものである。その展示は常時、国宝館でランダム(展示品交替)にて観覧出来、そのメインとなる甲冑が掲示の《伝》源義経奉納とされる赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)である。威(おどし)とは緒通しからの変遷であると聞く。ところで、この《伝》とは大三島宮社伝ということで、はっきりした伝歴は無いが文化庁から指定された国宝には国宝としての権威があるので、その権威と権利を失墜させることの無い範囲での純粋な学術研究はあまたの求めるところであろう。

国宝 伝 赤絲威鎧

脇壺の武田菱紋
検証
まず胸部の鳩尾板(きゅうびいた)栴檀板(せんだんいた)を見て頂きたい。一見してわかるのが八本骨開扇紋で、これは据文金物(すえもんかなもの)と呼ばれ、単なる装飾文様ではなく、はっきりとした家紋ではなかろうかという推察は「日本甲冑百選」で山上八郎氏が言及している。ただこの時期正式に家紋として各武将が採用していたと断定出来るところまでは断言できないが家紋とまではいかないが戦場における家区別認識証としての役割があったとしたならば立派な家紋としてのステータスを与えてもよかろう。戦場における合戦は当時、団体戦より個人戦(われこそはと名乗り家を重んじる風潮)の傾向が強い時代なのだから、尚更家意識は強いはずである。また大袖(おおそで)の上部の冠板(かんむりいた)にも扇紋、そして脇壷(わきつぼ)胴丸(どうまる)の胸板にも同様の扇紋らしき文(もん)が鮮明に見てとれるであろう。ところでこの鎧の脇壷の拡大写真を添付したが、そこにぐるりと《武田菱》紋があるのを確認しておいていただきたい。先の山上氏はその著書の中で、この赤絲威鎧をして扇文(紋)から熊野水軍の惣領、熊野湛増(くまのたんぞう)のものではないかと推定していて、社伝源義経奉納とは時代を同じく比定している。すなわち源平合戦の時代の物であろうと見ているのである。この大鎧は製作仕様がまことに特異な胴丸仕立てで、基本製造構成は非常に珍しい逸品であるとされ、国宝館でも特に注目されていて美しいものである。
また草摺(腰からしたの垂れ)は騎馬合戦や騎乗弓射に適した細分を採り入れ、胴丸は軽快な動作に有効な小振りな仕立てであることが認められる異色である。したがってその軽快感からか、この鎧は船戦用の甲冑であろうとの推察から水軍との関連で山上氏の推考を動かしたものだろうが、あくまで彼の説は断定はされてはいない。
ここで思い出されるのが寛政12年(1800)頃、松平定信によって編纂された『集古十種』の甲冑の部には、何故か不思議なことに、ここ大三島社の鎧郡の中でも逸品であるはずの当大鎧(赤絲威鎧)は掲載されず、大三島所蔵品では河野水軍の河野通信(こうのみちのぶ)の紺糸威鎧(こんいとおどしよろい)のみが記載されていることである。
詳細分析
それでは今までの要点と注目点を把握しながら、この赤絲威鎧の分析をしてみたい。
まず、@時代は源平合戦当時であること。は疑いない。A紋については扇紋は、源義経は当時、扇紋は使用していない。『集古十種』に掲載の同時期、山城國鞍馬寺所蔵の義経奉納の鎧兜の装丁は気位、気品も高く、桐紋(家紋と断定はできない)仕立てなのである
また熊野別当湛増が扇紋を使用した事実は山上氏が確認済みであるが、先に確認を求めた扇紋と並ぶ脇壷の《武田菱》は甲斐源氏の出自を持たない別当湛増には相応しくない。
三島社伝の義経が部下佐藤忠信をして代参奉納せしめたものとする説明も信じ難い
B騎馬弓射に適した胴丸、草摺の仕様は特異であること。当時の水軍の甲冑は騎馬軍団のそれとはまったく装丁がちがい、耐水仕様であり、かつ水軍は今で言う新鋭軍団でエリート意識があり、騎馬軍団の武将を簡単に乗せたり、それに融通し合うような妥協は皆無であること。すなわち、義経は別格としても彼の八艘飛びから連想される騎馬武将の乗船船上からの弓射はあり得ない

松平定信 編纂 『集古十種』所載
推論でおわりに
以上の@からBの諸条件を加味し考証すれば、扇紋と甲斐源氏の出自、そして武田軍団麾下(きか)でしかも義経との接点で源平合戦に関係する武将は、強弓を以て壇ノ浦合戦で功績を上げた、甲斐源氏、浅利与義遠しか見当たらない。 
平家物語巻第十一「遠矢」に登場する浅利与一義成(義遠)や、和田義盛は『集古十種』弓矢の部に所載の箙(えびら)を同じ大三島大山祗神社に奉納している。この勝利を導いた勲功、武功の歓喜は当然、義経の戦陣大将からの甲冑戦勝奉納せしめる行動となってしかるべきであろうから伝義経奉納でいいのかも知れないが、本来なら奉納者ではなく所納者の研究がされるべきであろう。赤絲威の赤色は武田軍団の後年の戦国時代に赤備えで敵に恐れられるものと相呼応する。ここではこの赤絲威鎧は甲斐軍団の浅利与一義遠の着領分として、最も似つかわしいものではないかと言及するのではあるが、なにせ相手は日本の国宝中の国宝であり、今から800年も前のことではあるから、これからも文化庁との意見交換を十分慎重にしながらも詳細な検分考証に当たりたいものである。