論考紀要3 | |
鷹匠と餌合子(えごうし) |
はじめに |
歴史遺産の中に凝縮された些細な事象や物証を推察し、その由縁と根源を探索、その由縁を推理して仮説の根源を求め、命題の提言を解明することは、歴史研究家の常套手段である。ある一品での歴史的因縁を求めて、中世から近世初期への探求の助走とした。 |
秋田叢書第七巻 平鹿郡 所載 文化七年八月〜文政九年四月迄の間の編纂か(遊覧記からの推定) 横手内町 下根岸町 浅利氏 ○浅利五郎作あり、浅利長兵衛某の家也。長兵衛足利尊氏朝臣に仕へ、また織田信長朝臣に仕へ、後浅利家に仕へて軍功に依て浅利を賜りぬ。上祖より代々鷹養の家にて、いにしへ兆曼梨が故竹女に伝へたりし 秘書、又興世、根津神平が故実どもの書ありて鷹の古術は此家に残りしとある輯録に見えたりしが今ありやなしや。長兵衛隠居名を牛蘭といへり。ぎふらむは紫蘭てふ草よりや思ひよりけむ、俗に紫蘭といへる草の漢名を白及といへるをもて及蘭なんどいふ人あり。また花肆、うゑ木屋(に)てもしかいへるか。此の浅利氏の家蔵に信長公の拝領とて鷹の【餌箱】とてあり、外は金梨地に金粉画にて五三(実は十九、九)の桐の蓋あり、内は朱塗にて古代の器也。いづれの帝ならむか織田家にたまはりし品ならんと云ひ伝へり。-以下略- 標題の【餌合子】とは、菅江真澄の《雪の出羽路》で記述された鷹の餌箱の事で、正しくは【えごうし】と読む。その漆器は、鷹匠の必携の鷹道具であって、久しく牛欄家、大館市浅利長兵衛家の家宝とされているそのもののことである。鷹匠は鷹の調教の際に此の【餌合子】を常時携帯する。鷹書の説明に「木製漆塗楕円形にて腰に下げ得る様、餌合子覆を付す。覆には紐を付し、根付けをつく。覆は皮または一閑張とす。」とある。その餌合子に鳩の肉を薄く細かに切って仕込んで置き、鷹の様子を見ながら片手で餌合子の蓋をとり餌合子を蓋の上に重ね、手のひらにうけ、指先で餌合子の底を蓋にあて音をたて、ホホと声を懸けながら、餌合子の中の肉を二三片与えるのである。中国秦の始皇帝時代の遺物に、銀製で楕円形の蓋付き同形器を合皿と書いてやはり(ごうし)と読ませるものが始皇帝陵兵馬傭の博物館に展示されているが、ごうしの総称としての呼称や鷹狩りの伝統も中国や朝鮮を経て日本に渡来したものであることが窺われる。牛欄家伝来の餌合子は木地の表面に細かい梨子地風の象眼細工が施され、その上に朱色の漆を塗り、研ぎ出し後の完成品に桐葉の金蒔絵がなされ、蓋の紋は京都高台寺の膳椀紋と、同じく高台寺豊臣公廟にある桐紋に類似しているが細部に渡って分析すると花蕾と花の状態が一部微妙に異なっている。花蕾(からい)の数は同じであるが 状態が三段階(つぼみ、満開、ちり花)に見て取れる。こうした太閤桐紋は全国的には稀であるが菅江真澄はその漆器(餌合子)を実際に見聞していないとみえて、桐紋の五三は掲載写真でお分かりの様にそれとは違うものであるが、作風は全国的に見ても大変稀少である。高さ5p 長径11p 短径7,5pの楕円形で保存状態は大変良好でおよそ400余年におよぶ悠久の流れを受け継がれてきたのである。漆関係で高台寺の膳椀研究の権威である京都国立博物館の灰野先生へ送付した写真鑑定で、『牛欄所有の餌合子は珍品で貴重なものである』のご返事を 頂戴した。京都高台寺は、秀吉の正室、寧々(北政所)の菩提寺として知られているが、北政所は慶長8年秋、征夷大将軍となったばかりの徳川家康の後援のもと、朝廷から【高台院】の称号を与えられ、自分と秀吉の菩提寺を東山に建立した。これが高台寺で、家康は寺領を寄進し尽力したのには、当時豊臣氏の最高権力者の淀君と秀頼の徳川への帰順屈服の説得を依頼するもくろみがあった。さきの《雪の出羽路》引用文の補説をすると、まず文化文政時代の長兵衛は牛欄から九代目の政隠か十代目の政護であろう。牛欄家は屋号が長兵衛で、通称は五郎作である。「長兵衛足利尊氏朝臣に云々」は祖先比内浅利氏が南北朝時代に浅利氏の一族であろう浅利六郎四郎清連が北朝方へ従属した事の故事の総意であって長兵衛はその当時存在はしないのである。また兆曼梨は朝鮮での先覚鷹師であり、その秘伝を故(小)竹女が受けて日本に秘伝秘書を伝来させたものでまさに菅江真澄の勉学博学の深さを改めて認識させられ、まことに彼の筆才の光るところである。興世、根津神平は日本での鷹飼の伝来の各流派で、特に日本では長く伝統的に知られる鷹飼伝承家系である。この菅江真澄に所載の屋号長兵衛家(鷹匠牛欄系)は永く記録が残り浅利家中で特に顕著だが、その伝来の【餌合子】はその証でもある。戦国当時、鷹匠として広く京、近江地方まで行脚した牛欄が入手した《餌合子》は承伝として《雪の出羽路》にもあるように【織田信長】から拝賜されたものとされている。周知の如く織田信長は全国的にも最も鷹狩りを好んだ武将で、暇さえあれば鷹野に足を運んだことは史実として記録に残っている。その信長に直結した拝賜説は納得のいく事でもあるが、残念ながら牛欄が直勤した関係を裏附ける確証記録は無い。ただ秋田藩家蔵文書の浅利氏系図上申書の中に牛欄が本能寺の変の時に、安土城に在城していたという記述は信長との間接的関係を諮詢を位置附けるものだろう。また織田家の家紋は織田木瓜で有名だが清洲城跡から発見された瓦に桐紋がありこの桐紋からも織田家との関係も考えられる。 |
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史料1 | |
織田信高書 「秋田藩家蔵文書」 ◎ 織田信高書 一、惣鷹之事可令意見候並鷹師之事 能々穿鑿仕可召置事 一、鴫鳩たか縄けつる雉子諸鳥等 連うし之事汝札を以堅可申付事 一、餌さし等之儀是又堅可申付事 一、領知弐千貫遣候上者全可令知行事 一、諸鷹匠扶持等之儀汝令裁判可申付事 右条々分国中堅固可申付候間自然 背族在之者可申上候可加成敗者也 天正十年 十月十九日 信高 花押 浅利兵庫助どのへ |
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この文書は織田信高が浅利兵庫助に宛てたものだが、父信長が暗殺された直後の10月に発せられた書状とは思えない内容で、動揺がうかがえない。そこには確固な秀吉たる後立てがあったからだろうが、織田信高はその後、天正19年(1591)秀吉に招かれ近江に知行を得た後、慶長4年12月1日付
徳川家康、 宇喜多秀家、毛利輝元ら三大家老の判物により近江菩提寺村、神崎郡山上村等に高2007石が安堵されることになる。 しかし翌年関ヶ原の戦いで西軍に付いた為、所領を没収されて没落していくのである。信高の母、お鍋の方は近江の土豪高畑某の息女で、八尾城主小倉実澄のもとに嫁したが、夫を亡して織田信長に頼り、やがて側室になる。先にも述べたが本能寺の変のとき母お鍋と信高は在城していて蒲生賢秀の機転で、近江日野城に逃れるのであるが、その頃から浅利兵庫助(政吉)とは交流があったものだろう。 又、天文年中の文書に次のようなものがある。 |
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史料2 | |
如御芳札此間者河原毛之馬為牽進之候処御喜悦之由本望至極候 彼馬之儀者別而乗も難無之従浅利殿有催立刑部大夫輔殿江 被差越候殊姓も能之条進入候処一段御大慶之由一入満 足候如何様会顔之砌御文之御礼可申述候萬吉重而 恐々謹言 猶々彼義付而態々御文受之御隔心之由存候 杖林斎禅棟 花押 神無月十一日 涼宗軒 御報 (解説)お手紙の様に先日は浅利殿からの配慮により河原毛色の 立派な馬を頂戴し大変喜んでいる。乗り心地も楽でその上性格も 良く、頂いた刑部大輔もすこぶる満足されている。近く面会出来 る節には厚くお礼を申し述べる。猶申し越しの件は十分に内容を 理解している。 注 河原毛之馬=たてがみの黒い白馬 |
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この文書の発信人の土佐林禅棟(杖林斉禅棟)は戦国期、出羽三山の入り口で栄えた、現藤島町の豪族で幅広い人的交流と勢力を持った人物と見られ、土佐林氏を仲介者として浅利氏がある用件依頼のために刑部大輔(誰なのかは不明)に馬を献上したことがこの書状に明らかにされている。何の目的で誰にどのような用件を頼んだのかは不明だが、この書状は比内浅利氏の家臣浅利政吉(後に金介と称し浅利氏の鷹匠を勤めた)家に家蔵されていたもので、現在は秋田県公文書館に寄託保存されている。この時代の各武将からの政治工作としての贈呈合戦はすさまじいものがあったが、現存するものでは桧山安東氏の家臣大高筑前宛ての返礼書簡が群を抜く数で、津軽、南部氏も同様に名馬、名鷹、特産物などの献上に力を注いでいる。 永禄五年(一五六二)八月の安東愛季(桧山)の比内攻めで、浅利則祐を自害へ追い込み、紛争の続くなか天正四年(一五七六)の秋田藩家蔵文書に興味深い文書がある。 |
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史料3 | |
湊茂季書状(写し) 右京亮殿をはしめ金介殿 いつれへもことつ て申候よしたのみ入候 御登も候いこハことつてをも申さす候 無心元存候兼日永安へ致到 来候へハ昨日罷帰候 其方へいそきととけ候へよし申候事ニ候て書 中参候間ととけ申それかし 所への文ニも何ともことハリなと無之 候間 見せ申さす候 御用も候て御出候 ハハ 万事可申承候 恐々謹言 五月二六日 茂季 判 (解説)津軽右京亮為信殿をはじめ、比内浅利金介殿へも 伝言下 さるとのことよろしく頼みます。こちらにおいでになっても何も事 づてを言わず御不安のことでしょう。(中略)御用があってこちら においでの節はたくさんお話を承りたい。 |
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この書簡の所持人は桧山安東愛季の家臣奥村惣右衛門である。 この時期は津軽氏、浅利氏、松前氏、安東氏とも、本来ならお互い対峙する宿敵同士の立場であるにも関わらず、このような時期にしては、のどかで穏和な交流があるのは注目される。その伝言用件は文書上からは読みとれないが、この謎解きの鍵を握るのは浅利金介である。 金介は比内浅利氏の一家衆だが、津軽為信と対等な立場で外交吏人として動いていたことが窺え、鷹師としての重用があったろう。 その前年天正三年二月二十日付けの桧山安東愛季宛ての織田信長からの次のような朱印状がある。 その内容を要約すると、「珍しい鷹が欲しいので鷹匠(師)を差し向ける。とにかく珍しい鷹が手に入ったら是非斡旋して欲しい。 途中鷹師の往復の安全や餌のことを取り計らって欲しい」というものだが、この内容は依頼というよりも、天下布武を自負する信長は、絶大な権力を後盾に威厳を持ち命令に近い書状を送ったのである。だから緊迫した北東北の中でも中央権力からの珍鷹の発 見捕獲と鷹師自由往来の伝達が急務であったから、こうした一時の交流が出来たのではないだろうか。 その九年後の天正十一年(一五八三)安東愛季の比内攻撃で浅利勝頼が討死、浅利氏は大きく衰退して安東氏への従属色をさらに深めていくのである。また牛欄は信長の女(娘)冬姫の配偶者で、蒲生賢秀の子【蒲生氏郷】にも直勤していることを証明する古文書の写しが現存していることから推察して、当時鷹狩りに長じていることを自負する信長との接点も考えられるだろう。 その後、蒲生氏郷からも次ぎの様な文書を受け取っている。 |
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史料4 | |
蒲生氏郷書 自是可出御青印 ◎ 蒲生飛騨守氏郷書 先日之後不申候 一、七右衛門ニ鷹すへさせ候て返し候 がんニあわせらるべく候 一、其方之鷹ともかいふんせめらるべく候 其後是非左右なく候まゝ油断候哉と 無心元候 一、鶴之事いかか候哉あハせ候事不成候か すいふんせいを入候てねらい候べく候 油断あるましく候然者けニ〜あわせ候事 不成候ハハ此返事ニ可被申越候 孫介かたへ鷹を遣候べく候 返々いつれも鷹共油断なくせめられ 候べく候 其方之様躰返事ニくわしく のほせられ候べく候 恐々謹言 十一月二十一日 氏郷 花押 ト 上書ニ 浅利金介どのへ 氏郷 |
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この文書は年紀が無いが、氏郷は天正15年(1587)に秀吉から羽柴姓を賜り羽柴飛騨守となり、本名の賦秀の秀を秀吉に、はばかり氏郷と改めているので、この文書は署名から天正15年以降天正20年までのものと見ていい。それにしても氏郷からある程度距離をおいたところに牛欄は居てそのうえ「其方の様躰返事に … 」の一節は牛欄のことを安じてのこととすれば、心身の変異もうかがえるものかも知れない。 天正20年(1592)にも次ぎの様な2文書がある。 |
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史料5 | |
◎ 蒲生飛騨守氏郷書 為 加増百石 遣之候全可 知行候也 天正二十年 正月二十七日 氏郷花押 浅利金介どのへ |
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◎ 蒲生飛騨守氏郷書 かうらいの山かへり 服采女殿へ早々 可相渡候為其ニ 申越候 謹言 八月十一日 氏郷花押 |
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同時期の文書とみられるが「かうらい」は高麗で「山かへり」とは年を越えて山に居て毛を生え変えた鷹のことである。いつの世も最も珍重されたのは高麗産の鷹で東北地方や丹後半島の鷹も優種とされ、多くは政治的献納の具とされていた。このように鷹匠としての牛欄は天正13年に秀吉こがいの武将津田小八郎に鷹飼十二巻の免許相伝をしている。 |
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