歴史記録にはあまり残らない歴史構図
佐竹氏 日本の大小名の中で一貫して歴史にその気概を残した名門は常陸(茨城)・出羽(秋田)の佐竹氏だろう。
佐竹氏族に流れる血脈は時代の主流に流されない果敢な精神力にあると思っている。
たとえば鎌倉時代は同じ源氏流でありながら源家の本流にへつらわなかったし、天下の趨勢が徳川だろう
と時代が移ろうとしても敢えて外様の道を選択したことは有名である。
家紋その1 家紋に関しての成立論は初期の緒論を考慮しても、扇紋は浅利氏が最も古い。
天下の佐竹扇紋は頼朝が奥州合戦のとき遅れて参陣した佐竹氏の白旗を叱責して宇都宮で
変更させたことによる。これは下賜ではなく、命令であったことは頼朝が父祖以来の怨念もあったからだろう。
その怨念とは金砂城の戦いのことである。
なぜ秋田 関ヶ原合戦の後、家康が佐竹氏を常陸の国から何故に出羽国(秋田)に転封させたのだろうか?という素朴な疑問。
出羽国に移封を命じられた時、さぞかし佐竹氏はがっくりしたことだろう。未知のくに(みちのく)は外様
としても余りにも遠国である。その発想が浅利氏ではないかと考えている。家康は『吾妻鏡』の無類な愛読家
で、同じ清和源氏流の比内浅利氏が居ることを知っていた。しかし同じ扇紋であった関係で浅利氏は改紋を
余儀なくされ、移封直後は一揆で悩まされることとなった。
家紋その2 比内浅利氏宗家の家紋は十本骨開扇である。甲斐浅利宗家と比内浅利氏との血縁と血脈は現在確固たる文献はないが
比内地方を治めた比内浅利氏は鎌倉以来戦国時代まで栄枯盛衰を繰り返すが甲斐浅利氏の威光をバックに
比内地方の小郷士を掌握したに違いない。ところが甲斐本貫の地での家紋は諏訪神社の社紋烏帽子が五本骨開扇
であることから、浅利氏宗家の家紋が当然、それであろうと推測されてきた比定は拙速である。
この五本骨扇は宮司竹内氏の家紋でもあり、必ずしも浅利氏の宗家紋である必然もない。
ただ浅利氏とは血縁とされる飯室氏は骨のない地紙であり、扇紋は浅利氏の象徴であることにかわりはない。
家紋その3 大館浅利氏菩提寺、鳳凰山玉林寺の寺紋は雁金(かりがね)である。この紋は浅利氏没落後の佐竹氏
入部にともない、慶長7〜9年頃に同じような扇紋では畏れ多いとして扇に似た雁金に改紋したものだ。
従って浅利氏ゆかりの独鈷大日堂祈願所も雁金に同時に改紋したと考えられる。
大きな時代の軋轢に振り回される家紋はいつしか旧来(本来の)家紋に戻されるべきだろう。
現在の玉林寺住職の袈裟には雁金と扇紋が鮮やかに印されているのをご覧あれ。
地頭 鎌倉幕府成立後、源平合戦の論功行賞で甲斐の浅利・南部氏らは奥州の地を拝領したが、地頭職という明示した文献
は残念ながら存在しない。従って結果論的な状況を判断しての総論で判断するしか仕方がないが、こと浅利氏に関しては
比内地方の所領の他に、浅利義成の息子、知義は福島県石川郡浅川町周辺も拝領したとの伝承が残っている。
その実態は同様に記録的文献があるわけではない。青葉城として築城された浅川城址は今も立派に残っている。
奥羽永慶軍記 永禄年間から慶長までの期間を中心に元禄11年(1698)に成立した歴史文学書(全39巻)である。
久保田(佐竹藩)横堀村(現湯沢)の医師、戸部正直(いっかんさい)が奥羽各地の古老から聞き書きしたとされるが
資料批判も多く、その引用は危険が伴うが戦国時代の史料が少ないことで郷土史での引用も多い。
こと浅利氏や安東氏、小野寺氏、小助川、戸沢氏、本堂氏などの動向を果敢に明記しているため、どうしても史実
でもあったかのような印象を与えるため、慎重な対処が必要である。
浅利氏以前 比内地方はかつては、平泉藤原氏の影響下にあったとされ、贄の柵があったと考えられている。その比定地はまだわからない。
その1 鎌倉からの奥州制圧軍が逃亡した藤原泰衡の行方を見失った後、不思議な事象が起きる。泰衡が命乞いの投げ文があり
返事を比内の某所に立て札してくれ、という暴挙である。逃げた泰衡が現実に居場所がわかるようなことをするだろうか?
そこで暗殺したとされる贄の柵主河田次郎がやったのではないかの推測が出てくる。しかしここには大きな矛盾がでてくる。
記録と事象 記録に残った歴史事象はすべてが正しい訳ではないから論証として史料批判は必要である。また記録が全く無いからそこには
何も歴史的事実が無かったとする事は避けなければならない。特に歴史の連綿性は概して重要ではない。
その時代に何が起こって如何に対応したのかが歴史の重要な事であることは自明の理である。
甲斐や比内地方の浅利氏に関しての歴史資料が少ないのは瓦解の時期が問題となる。
次の世代の政権は前の治世を由とするものではないから当然焚書が起こり、口をつぐんでしまうのは当然のことであろう。