▼秋田県二ツ井町の旧道米白橋を渡って右にカーブした左手にすぐ、石造りの白い鳥居があります。それが切石の村社・兜神社で青苔の生えた急な石段を57段上ると鬱蒼とした杉林のなかに静かに鎮座しています。 上った直ぐ右手には、唐松様を祀った小さなお堂があり、本殿右手には杉林を背にして、猿田彦大神二基や庚申塔六基、その他合わせて14基もの石塔が並んでいます。
二ツ井町史から抜粋 兜神社ご神体
切石の兜神社
兜神社社殿

毎年5月3日に祭典が行われています。
兜は、昭和四十一年(1966)に鑑定家
山上八郎氏によって、出羽国第一の古兜
と認定されているが、公開はしていない。

      兜神社の由来
 
文治五年(1189)平泉の藤原四代泰衡公は、源頼朝に追われ蝦夷の地に落ち延びようとしてたまたまこの地を通りましたが、疲労甚だしく、兜を切石に脱いで川を渡り、さらに鎧を薄井に脱いで逃げたと伝えられている。しかしその後、泰衡公は肥内郡贄柵(現在の北秋田郡比内町)で郎党河田次郎によって惨殺されてしまいました。 
奥羽の名将として名高い泰衡公の無念さを憐れんだ切石村、薄井村の村人達は、泰衡公の脱ぎ捨てた兜と鎧を御神体として社に祀ったといわれています。これが切石の兜神社、薄井の鎧神社です。

 


秋田県二ツ井町薄井の鎧神社の社殿は、百数十年前に現在地に移っています。薄井にはもともと「豊受大神」を祀った神社があり、文治年間に泰衡公の鎧が合わせて祀られたようです。この本来の社は、今も「奥のお堂」とよばれ、外面山近くの田んぼの中ほどにこんもりとした林に囲まれて残っています。
鎧神社ご神体 二ツ井町史抜粋

 

鎧神社の由来
 文治五年(1189)平泉の藤原四代泰衡公は、源頼朝に追われ蝦夷の地に落ち延びようとしてたまたまこの地を通りましたが、疲労甚だしく、兜を切石に脱いで川を渡り、さらに鎧を薄井に脱いで逃げました。しかしその後泰衡公は肥内郡贄柵(現在の北秋田郡比内町)で郎党河田次郎によって惨殺されてしまいました。奥羽の名将として名高い泰衡公の無念さを憐れんだ切石村、薄井村の村人達は、泰衡公の脱ぎ捨てた兜と鎧を御神体として社に祀ったといわれています。これが切石の兜神社、薄井の鎧神社です。
薄井の鎧神社
鎧神社社殿
御神体の鎧は、毎年5月2〜3日の神社の
祭典の日に開帳されています。

二ツ井町の切石、薄井の兜、鎧神社はともに建立縁起は藤原泰衡に由来するものであるが、泰衡は平泉から鹿角を経由して比内郡の贄の里まで逃れて河田次郎に殺されている。
従ってこの二ツ井まではたどり着いてはいないので、米代川から流れ着いた兜鎧が哀れみで村人に拾われ、大切にその怨念を沈めるために崇め奉ったのだろう。