戦国浅利氏一家衆と家臣の紹介をしましょう
独鈷 (とっこ)城主   浅利則頼(のりより)
戦国土豪浅利氏の全盛期を築き独鈷城主(十狐城)として君臨する
戦闘能力に長け人物的にも優秀な武将で文武両道、琵琶をこよなく愛した。
与一、兵部大輔
玉林寺殿明庵珠光大居士

天文19年6月18日卒

浅利則頼正室      
勝頼母
正室ではあるが、側室より後に勝頼を産んだので世継ぎを奪われた。
清心院殿月珊妙光大姉

浅利則頼側室      
則祐母
側室だが正室よりも先に則祐を産んだため独鈷城での確執を生んだ
高屋氏の娘

笹館 (ささだて)城主  浅利頼重(よりしげ)
笹館村の北西小高い丘の笹館城主浅利則頼の次弟
勘兵衛
頼重には子が無く勝頼の二子
頼廣が継ぐ。

笹館          浅利頼廣(よりひろ)
勝頼二男
勘兵衛
その子孫は慶長7年以降は横手へ流落
その後秋田(久保田)へ移住。
佐竹氏鷹匠となる

十二所(じゅうにしょ城主 浅利正頼(まさより)
南部への最前線十二所城の城主
浅利則頼の3番目の弟
九兵衛
南部勢、桜庭兵助の攻撃を受け生害

花岡(はなおか城主  浅利定頼(さだより)
北の守り花岡城
浅利則頼の4番目の弟
治郎吉
安東氏との山田合戦で戦死

             浅利則祐(のりすけ)
迫害をうけた不運の後継者
永禄5年安東氏の攻撃で自害。
浅利則頼の長子嫡子

子孫は藤琴に移住し、繁栄する
与一
興量院殿歓応了喜大居士
永禄5年12月20日卒

長岡(ながおか)城主  浅利勝頼(かつより)
扇田長岡城主で後に大館にも築城するも、家臣の裏切りに合い惜しくも討死される
勝ち気で傲慢だとの風聞だが風説の流布か?
義正民部大輔
現成院殿機安勝全大居士
天正10年5月17日卒

浅利勝頼正室      
浅利勝頼正室
悲運の姫といわれるが、天文、弘治
永禄、天正10年までの戦乱を強く
生き抜いた。

智光院殿破山了天大姉

八木橋(やぎはし)城主 浅利政吉(まさよし)
初め門脇金助だが則頼側室母方である縁で松の方に婿入りし浅利政吉を名乗る。後に浅利家を出奔、鷹匠となって全国を歩き敦賀で橋本長兵衛を名乗り鷹絵工房設立。
大坂評定や横手移住で奔走する立役者。佐竹氏士官し明治まで長兵衛家として存続。
金助兵庫助長兵衛牛欄
源誉明達
慶長18年1月25日卒

浅利政吉室       松の方
浅利則頼の娘で初め安東九郎友季に嫁すが、友季早世後浅利家に帰省門脇金助を迎え婚姻する
八木橋城には大きな松の木が2本昭和まで育ち、桜の名所であった
政吉と行動を共にしたかは不詳

            浅利頼平(よりひら)
浅利氏のお家再興を願い、孤軍奮闘その力強い政治力は安東氏を圧倒
大坂勝訴の直前暗殺される
久義、与一、民部少輔
昇平院殿年鷹宗清大居士
慶長3年1月8日卒

浅利頼平室         
大坂評定へは夫頼平、子息と共に上洛陳情するも夫が惜死
遺児、頼治とともに再度陳情するが比内本家が安東氏に攻撃され崩壊
遺児と共に安東氏から逃れ横手へ
性空院殿寒月宗光大姉

中野(なかの)城    片山弥伝彦四郎
浅利氏家臣団の古くからの宿老
浅利勝頼の謀殺に一枚加担したとされ、後に安東氏からの論功行賞で比内に安堵状
比内郡浅利家における悪の権現

杉沢(すぎさわ)館     杉沢喜助
勝頼暗殺の実行犯といわれる
片山大膳とともに慶長6年安東氏から安堵状を受ける

池内(いけない)館     池内権助
杉沢喜助とともに勝頼暗殺の共謀で知られる。その後の消息は知れず。

人物画像は『信長の野望』引用