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NO | 城館名 | 現況 | 説明 |
29 | 摩当 まと |
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米代川の河畔にほ近くに小高い単郭の館址がある。四面空堀で台地を形成し浅利の重臣家老野呂七蔵が居館。文禄五年の浅利安東合戦では浅利頼平は本陣を置いたのは最重要地点で裏山間が大館盆地へ直通する。摩当館。 |
30 | 綴子 つづれこ |
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綴子集落の西側に奥の山稜突端の舌状の台地に綴子館がある。綴子村には太田四郎衛門、奈良田喜左衛門が居館したが誰が此処に居住したかは不明。綴子神社は起源は古く境内の内舘文庫は莫大な未整理資料を誇る。綴子館。 |
31 | 脇神 わきがみ |
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脇神集落の南西の急峻な台地が脇神館である。小猿部川を隔てて脇神集落一帯が見渡せるが小猿部川上流は大館比内に連なりその最前線を守る重要なポイントであろう。居館者は不明である。脇神館。 |
32 | 小森 こもり |
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小森川に沿った小森台地の突端に小森館がある。館主は不明だが中世の館址に違いない。小森街道は比内への直通道でその守りが重要なのは言を待たない。小森館。 |
33 | 根木屋敷 ねぎやしき |
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小森街道を挟み小森台地に長く集落が続く慶長二年浅利頼平領内村数覚書に『禰きやしき』が出てくるから中世浅利氏の支配地点であったことが知られる。七日市村まで続く。かつて周辺の中心地と見られる。 |
34 | 岩脇 いわわき |
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岩脇南稜の台地状にある岩脇館は浅利の臣岩脇小左衛門が居館し小猿部平野の南端の守りとなっている。台地上に東西空堀を抱え連郭式の居館で小猿部平野が望める。 |
35 | 妹尾館 せおたて |
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明利又街道の中間拠点小猿部川の河畔に大きな台地があり浅利の臣妹尾嘉左衛門の居館であった。妹尾館の規模は明利又地域では大きい方で妹尾太郎の名も知られている。現在も妹尾館の名がそのまま呼称されている。 |
36 | 横渕 よこぶち |
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七日市の入口から小猿部川河畔の傍台地に横渕集落がある。館は川を越えて囲の内にあるが小猿部川流域の囲の内は村支配に関連した土地を指しているようだ。浅利の臣、横淵甚兵衛の居館。横淵館。 |
37 | 品類 しなるい |
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品類川が小猿部川に合流する辺に品類館がある。浅利の臣、品類又助の居館で奥沢は自然杉の宝庫で長木沢と並んで浅利氏領の杉主産地だった。品類氏は益子氏という口伝もある品類館。 |
38 | 明利又 あかりまた |
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かつて浅利岐と呼ばれた明利又は比内浅利氏の居城とされている。しかし城館の様相は微塵もなく山城ではあるが避難砦としての性格で小猿部川を下り大覚峠で西木戸沢への立寄場であったろう。五基の墓石は敗戦後の弔いとみていいだろう。明利又館。 |
39 | 坊沢 ぼうざわ |
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坊沢高館ともいう。浅利の臣側衆長崎尾張が居館し荷上場の手前では重要な拠点と位置づけられた。長崎氏は浅利氏史料の一端であった長崎氏旧記を残したが今行方不明で散文で残るのみ。坊沢館(房沢)。 |
参考文献 郷村史略、秋田県の中世城館、出羽諸城の研究、秋田の城、秋田県史、等他数種 |
凡例 城、館の違いは正確ではありませんが浅利氏の当時の表現から判断した。読点省略 |
注意 写真は必ずしも城館址を写していない箇所も有ります。関連地域としてご覧下さい。 |
分類は必ずしも行政区分ではありません体制上の防備地域で考慮しました。 |