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NO | 城館名 | 現況 | 説明 |
12 | 山館 やまたて |
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扇田の城から米代川を渡ってまもなくの小高い丘の突端部に浅利の臣、山館刑部の居館がある。現在は八幡神社が鎮座していて比内方面の見晴らしがいい。 山館。 |
13 | 池内 いけない |
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浅利勝頼謀殺に安東氏の手先として関わった浅利の臣、池内権助の居館と考えられ小高い丘は池内部落の鎮守八幡神社となっている。大館と比内の中間に位置し米代川西方が全望出来る。池内館。 |
14 | 大館 おおだて |
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天正年間、扇田から大館に進出した浅利勝頼が初めて城割をした。佐竹氏族小場氏の入部後桂の木があったのか桂城と呼ばれ城下に足軽の独鈷町がある。北面は自然の要壁となり対津軽防御を想定した町割りであろう。 |
15 | 花岡 はなおか |
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花岡城は現在県立大館工業高校の敷地となっているが浅利一家衆で則頼の兄弟とされる定頼が城主。北比内最前線の守りとして重要な位置を占める。平城で北面は自然の要害だが他は防御が甘い。花岡城。 |
16 | 釈迦内 しゃかない |
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釈迦内村の南側台地にあり、傍を乱川が流れる昔浅利氏の姫が居住していた母袋飾(ほろかざり)館があったと口伝されるが現在はその台地の中央を国道7号の為えぐり取られ昔の面影はなく台地の先端に神明社がある。 |
17 | 茂内屋敷 しげないやしき |
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雪沢沿道の守りの前線で左馬台と呼称されているから野呂左馬之助の一門屋敷であったか後年野呂氏の一族から茂内氏への改姓分流もみられる。大茂内、小茂内の諏訪神社当たりも同族支配か。茂内館。 |
18 | 沼館 ぬまだて |
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大館盆地の北面の小高い山を利用し西側に掘割がある。浅利の臣が居住したと言われているが誰かは定かではない。下内川が前面を流れ沼が多く散在したことから沼館と呼ばれたか。 |
19 | 片山 かたやま |
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現在の片山地内は米代川と長木川の河岸段丘で長い丘陵を形成するが古くは片山野と呼ばれ北西面の守りと考えられ片山大膳一族の居館が有ったと考えられ、館下の上、八坂神社台地が城跡と考えられる。片山館。 |
22 | 軽井沢 かるいざわ |
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額田淡路の伝説がある居館で浅利氏に滅ぼされる。村に五輪岱があるが額田氏の五輪塔があったものか。南部領からの攻撃を米代川東側で防御する前線基地。後陣に中山が控える軽井沢館。 |
23 | 十二所 じゅうにしょ |
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南部防御の最大拠点。浅利の臣、十二所信濃が居城し城郭も規模が大きく多郭の形状で平山城の様相で家臣中でも破格の稲知行を受ける。江戸佐竹藩時代も塩谷氏、茂木氏と代々拠点として当地は重んじられた。 十二所城 |
24 | 高梨 たかなし |
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南部境土深井の丘に館あり。浅利の臣で山拠人を勤めた沢尻市之丞、刑部左衛門を代々名乗り後に花田氏を名乗るが役柄上分限帳には出てこないが沢尻氏の古文書で知ることが出来る。高梨館。 |
46 | 高屋 たかや |
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鹿角郡と比内郡の境近くの丘陵地にあり浅利則頼の側室を出した豪族ではないかとみられ、秋元氏系で比内浅利領と最隣接地。 |
47 | 高館 たかだて |
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高館は浅利の臣、工藤某の居城とされているが定かではない。秋田安東氏の家臣説もあり標高があり大館盆地がすべて見渡せる南面が拓け花岡沼館にほど近いためその不便さで後に利用されなかったかもしれない |
48 | 鬼ケ城 おにがじょう |
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鬼ケ城があったという伝説による鬼ケ台はかつて浅利氏開基とする玉林寺(曹洞宗)の古址があった。その台地は鳳凰山の裾にあり南部領への街道の一の渡の渓谷を擁しいにしえより要衝の地だったろう。 |
50 | 七ツ館 ななつだて |
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古城七ツ森の形から七ツ館という。浅利定頼が居館としたとあるが現在信正寺の境内の近く天正2年12月28日山田合戦で定頼討死する。花岡城はあるから隠居所か支城となるものか七ツ館。 |
参考文献 郷村史略、秋田県の中世城館、出羽諸城の研究、秋田の城、秋田県史、等他数種 |
凡例 城、館の違いは正確ではありませんが浅利氏の当時の表現から判断した。読点省略 |
注意 写真は必ずしも城館址を写していない箇所も有ります。関連地域としてご覧下さい。 |
分類は必ずしも行政区分ではありません体制上の防備地域で考慮しました。 |