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NO | 城館名 | 現況 | 説明 |
01 | 独鈷 とっこ |
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戦国土豪浅利氏の本拠地、独鈷城(十狐城)戦国期浅利與一則頼が本城とし浅利勝頼が扇田や大館に城を構えるまでの主城として居城し大日堂が守り神として現存している。平城で数郭から成るが城郭規模は比内域随一。 |
02 | 中野 なかの |
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全応寺(曹洞宗)傍の高台三郭から成り殿館と呼称されるところで早い頃の築城で永禄年間浅利勝頼が入城し勝頼が扇田、大館の城に移ったあと家老片山大膳の居館。集落の氏姓は野呂氏が多い。中野城。 |
03 | 笹館 ささだて |
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笹館村の北西に小高い丘があり現在は養牛寺(曹洞宗)があるところで浅利氏一家衆の浅利勘兵衛頼重が居館。頼重には子が無く勝頼の二子頼廣が継ぐ。その子孫は慶長以降横手秋田へ移住。笹館城 |
04 | 扇田 おうぎだ |
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長岡の丘陵に築き天正10年城主浅利勝頼が謀殺されるまで戦国末期の浅利氏の中心城郭となるが平城で防御が甘い為安易に攻撃の的となったものだろう。米代川と犀川に挟まれ川運で要衝の地となる。片山駿河居す。浅利八幡社あり扇田城、長岡城ともいう。 |
05 | 八木橋 やぎはし |
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八木橋村の南の小高い山は周囲が空堀と引欠川が流れ自然の要害である。則頼の娘(松の方)が帰家後に則頼側室(高屋氏)系である門脇金助が入婿し城を預かる。本名政吉は鷹匠画家の長兵衛家で現在まで系譜を繋いでいる慶長頃隠居名を牛欄という。八木橋城。 |
06 | 前田 まえだ |
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現在は比内前田の名で呼ばれ八木橋城から約500mほど近くで浅利の臣、前田清左衛門の居館があったところだが大館市民の憩いの場(市民の森)に隣接している。村の多くは芳賀氏である。前田館。 |
07 | 杉沢 すぎさわ |
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比内前田から300mほど行くと杉沢村でその集落の端に浅利の臣、武田與左衛門、杉沢数馬らが住んだと思われる杉沢館がある。村の住人の多くは武田氏で武田菱の家紋を使用している。杉沢館。 |
08 | 本宮 もとみや |
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前の前田館と杉沢館、本宮の三館で三角の鶴翼を形成し八木橋城の前方で防御する型を作るものだろう。浅利の臣、本宮弥九郎が居館とした高台は今熊野神社で防敵堅牢だ。熊野信仰でのほんぐうが本宮となったものだろう本宮館。 |
09 | 大子内 おうしない |
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渋谷のハチ公はこの村の生まれでその生家が斉藤家だが浅利の臣、大子内三十郎、斉藤與平治の居館だったから斉藤氏の子孫であることが濃厚であろう。 大子内館。 |
10 | 大披 おおびらき |
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集落の全体が丘陵状の丘にあり要害を形成しているが浅利の臣、武田太郎作の居館があった。現在も村の多くが武田氏である。 大披館。 |
11 | 赤石 あかいし |
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古城屋敷溝の地なり浅利の臣、赤石美作という者居住せり。というから所在はわかっていただろうが現在は判然とはしていない。また浅利氏末期、赤石左近氏実という留守居が実在(美作子孫と考えられる) 赤石館。 |
20 | 新館 しんたて |
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犀川の流れに沿い独鈷と扇田城の間に位置する要衝の地を守備する城館だろう。単郭式の台地で東側はほぼ全域空堀となる。浅利の臣真館九蔵の居館で現在は八幡神社がある。真館。とも書く |
21 | 味噌内 みそない |
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本城独鈷城域の前方の守りで浅利の臣、味噌内太郎右(左)衛門の居館があった。居住では安保丹後もいる。村の北側は自然の要壁で眺望が利く。隣村の駒橋とで本城独鈷を直前で守る。味噌内館。 |
49 | 大葛 おおくぞ |
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大葛金山は戦国時代から浅利氏によって開発されていた。尾去沢に次ぐ古さで越後見立で金を採掘したものだろう。すぐ峠越えは南部領で浅利の臣佐藤與兵衛が守り今も佐藤姓がかなり多い。大葛館 |
51 | 贄の柵 にえのさく |
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奥州合戦での藤原泰衡終焉の地でその場所の比定は確定していないが、比内郡の中心だった。二井田地区の近隣中台、陣の腰という高台が有力とみられるがいずれこの周辺であろう。新田館がどこかは不明。 |
参考文献 郷村史略、秋田県の中世城館、出羽諸城の研究、秋田の城、秋田県史、等他数種 |
凡例 城、館の違いは正確ではありませんが浅利氏の当時の表現から判断した。読点省略 |
注意 写真は必ずしも城館址を写していない箇所も有ります。関連地域としてご覧下さい。 |
分類は必ずしも行政区分ではありません体制上の防備地域で考慮しました。 |