戦国浅利氏支配の関係する領域を訪ねてみましょう

鳳凰山 (ほうおうざん)
鳳凰山 甲斐駒ケ岳鳳凰三山に似ていた為浅利氏が移住して名付けたという大館盆地の象徴的な山で海抜520mたらずではあるが麓の鬼ケ岱(台)は古くから館があったらしくここに浅利氏ゆかりの鳳凰山玉林寺の古址があった。
大館市。

独鈷 (とっこ)
独鈷城 戦国土豪浅利氏の本拠地、独鈷城(十狐城)戦国期浅利與一則頼が本城とし浅利勝頼が扇田や大館に城を構えるまでの主城として居城し大日堂が守り神として現存している。平城で数郭から成るが城郭規模は比内域随一。
独鈷城

中野 (なかの)
中野城 全応寺(曹洞宗)傍の高台三郭から成り殿館と呼称されるところで早い頃の築城で永禄年間浅利勝頼が入城し勝頼が扇田、大館の城に移ったあと家老片山大膳の居館。集落の氏姓は野呂氏が多い。
中野城

笹館 (ささだて)
笹館城 笹館村の北西に小高い丘があり現在は養牛寺(曹洞宗)があるところで浅利氏一家衆の浅利勘兵衛頼重が居館。頼重には子が無く勝頼の二子頼廣が継ぐ。その子孫は慶長以降横手秋田へ移住。
笹館城。

扇田 (おうぎだ)
長岡の丘陵に築き天正10年城主浅利勝頼が謀殺されるまで戦国末期の浅利氏の中心城郭となるが平城で防御が甘い為安易に攻撃の的となったものだろう。米代川と犀川に挟まれ川運で要衝の地となる。片山駿河居す。浅利八幡社あり扇田城、長岡城ともいう。
比内町

八木橋 (やぎはし)
八木橋城 八木橋村の南の小高い山は周囲が空堀と引欠川が流れ自然の要害である。則頼の娘(松の方)が帰家後に則頼側室(高屋氏)系である門脇金助が入婿し城を預かる。本名政吉は鷹匠画家の長兵衛家で現在まで系譜を繋いでいる慶長頃隠居名を牛欄という。
八木橋城

前田 (まえだ)
前田館 現在は比内前田の名で呼ばれ八木橋城から約500mほど近くで浅利の臣、前田清左衛門の居館があったところだが大館市民の憩いの場(市民の森)に隣接している。村の多くは芳賀氏である。
前田館

杉沢 (すぎさわ)
杉沢館 比内前田から300mほど行くと杉沢村でその集落の端に浅利の臣、武田與左衛門杉沢数馬らが住んだと思われる杉沢館がある。村の住人の多くは武田氏で武田菱の家紋を使用している。
杉沢館

本宮 (もとみや)
本宮館 前田館と杉沢館、本宮の三館で三角の鶴翼を形成し八木橋城の前方で防御する型を作るものだろう。浅利の臣、本宮弥九郎が居館とした高台は今熊野神社で防敵堅牢だ。熊野信仰でのほんぐうが本宮となったものだろう。
本宮館

大子内 (おうしない)
大子内館 渋谷のハチ公はこの村の生まれでその生家が斉藤家だが浅利の臣、大子内三十郎斉藤與平治の居館だったから斉藤氏の子孫であることが濃厚であろう。
大子内館

大披 (おおびらき)
大披館 集落の全体が丘陵状の丘にあり要害を形成しているが浅利の臣、武田太郎作の居館があった。現在も村の多くが武田氏である。
大披館

赤石 (あかいし)
赤石館 古城屋敷溝の地なり浅利の臣、赤石美作という者居住せり。というから所在はわかっていただろうが現在は判然とはしていない。また浅利氏末期、赤石左近氏実という留守居が実在(美作子孫と考えられる)
赤石館

山館 (やまだて)
山館 扇田の城から米代川を渡ってまもなくの小高い丘の突端部に浅利の臣、山館刑部の居館がある。現在は八幡神社が鎮座していて比内方面の見晴らしがいい。
山館

池内 (いけない)
池内館 浅利勝頼謀殺に安東氏の手先として関わった浅利の臣、池内権助の居館と考えられ小高い丘は池内部落の鎮守八幡神社となっている。大館と比内の中間に位置し米代川西方が全望出来る。
池内館

大館 (おおだて)
大館 天正年間、扇田から大館に進出した浅利勝頼が初めて城割をした。佐竹氏族小場氏の入部後桂の木があったのか桂城と呼ばれ城下に足軽の独鈷町がある。北面は自然の要壁となり対津軽防御を想定した町割りであろう。
大館市中城。

花岡 (はなおか)
花岡城 花岡城は現在県立大館工業高校の敷地となっているが浅利一家衆で則頼の兄弟とされる定頼が城主。北比内最前線の守りとして重要な位置を占める。平城で北面は自然の要害だが他は防御が甘い。
花岡城

釈迦内 (しゃかない)
母袋飾館 釈迦内村の南側台地にあり、傍を乱川が流れる昔浅利氏の姫が居住していた母袋飾(ほろかざり)館があったと口伝されるが現在はその台地の中央を国道7号の為えぐり取られ昔の面影はなく台地の先端に神明社がある。
館。

茂内屋敷 (しげないやしき)
雪沢沿道の守りの前線で左馬台と呼称されているから野呂左馬之助の一門屋敷であったか後年野呂氏の一族から茂内氏への改姓分流もみられる。大茂内、小茂内の諏訪神社当たりも同族支配か。
茂内館

沼館 (ぬまだて)
大館盆地の北面の小高い山を利用し西側に掘割がある。浅利の臣が居住したと言われているが誰かは定かではない。下内川が前面を流れ沼が多く散在したことから沼館と呼ばれたか。
沼館。

片山 (かたやま)
浅利家宿老の片山駿河は重鎮であり、深く信頼されていた。片山大膳一族の居館と推定される場所は館下の上現在の八坂神社台地ではないかとされ、当時この方面は片山野と呼ばれ天正十年、慶長三年の主家暗殺に暗躍したとされる。
片山館

新館 (しんだて)
犀川の流れに沿い独鈷と扇田城の間に位置する要衝の地を守備する城館だろう。単郭式の台地で東側はほぼ全域空堀となる。浅利の臣真館九蔵の居館で現在は八幡神社がある。真館。とも書く
新館。

味噌内 (みそない)
本城独鈷城域の前方の守りで浅利の臣、味噌内太郎右(左)衛門の居館があった。居住では安保丹後もいる。村の北側は自然の要壁で眺望が利く。隣村の駒橋とで本城独鈷を直前で守る。
味噌内館

軽井沢 (かるいざわ)
額田淡路の伝説がある居館で浅利氏に滅ぼされる。村に五輪岱があるが額田氏の五輪塔があったものか。南部領からの攻撃を米代川東側で防御する前線基地。二ツ井にも額田一族の伝説がある。
軽井沢館

十二所 (じゅうにしょ)
南部防御の最大拠点。浅利の臣、十二所信濃が居城し城郭も規模が大きく多郭の形状で平山城の様相で家臣中でも破格の稲知行を受ける。江戸佐竹藩時代も塩谷氏、茂木氏と代々拠点として当地は重んじられた。
十二所城

高梨 (たかなし)
南部境土深井の丘に館あり。浅利の臣で山拠人を勤めた沢尻市之丞刑部左衛門を代々名乗り後に花田氏を名乗るが役柄上分限帳には出てこないが沢尻氏の古文書で知ることが出来る。
高梨館

山田 (やまだ)
山田城 大館盆地入り口田代から花岡への山街道への中間に山田集落がある。山田柏木は浅利氏が多く蟹沢(後に岩沢)庄兵衛が館を守るが集落全体の丘が館城を形成し山田川の水を掘割と利用した。平城で要害ではない。
山田城

川口 (かわぐち)
山田城から大館盆地への入口に山田川が流れその地に小高い八幡社があるが浅利の臣、佐藤兵助が居館したが場所は比定できない。隣接の立花(館鼻)が濃厚か。大館比内盆地の要で米代川の守りも川口となったものか。
川口。

長坂 (ながさか)
長坂は集落台地全体が館郭を成し集落の東西西側が長い坂になっている。羽州街道一里塚は往時の通行を偲ばせる。南部藩士小笠原一族が居館とした口伝がある。
長坂館

糠沢 (ぬかざわ)
永正年間浅利則頼の将太田四郎左衛門が居館した。鷹巣盆地の東端糠沢川が米代川に合流する羽州街道に沿った小高い丘に構える。館としては東西に防御し易い。
糠沢館

摩当 (まと)
米代川の河畔にほ近くに小高い単郭の館址がある。四面空堀で台地を形成し浅利の重臣家老野呂七蔵が居館。文禄五年の浅利安東合戦では浅利頼平は本陣を置いたのは最重要地点で裏山間が大館盆地へ直通する。
摩当館

綴子 (つづれこ)
綴子集落の西側に奥の山稜突端の舌状の台地に綴子館がある。綴子村には太田四郎衛門奈良田喜左衛門が居館したが誰が此処に居住したかは不明。綴子神社は起源は古く境内の内舘文庫は莫大な未整理資料を誇る。
綴子館

脇神 (わきがみ)
脇神集落の南西の急峻な台地が脇神館である。小猿部川を隔てて脇神集落一帯が見渡せるが小猿部川上流は大館比内に連なりその最前線を守る重要なポイントであろう。居館者は不明である。
脇神館

小森 (こもり)
小森川に沿った小森台地の突端に小森館がある。館主は不明だが中世の館址に違いない。小森街道は比内への直通道でその守りが重要なのは言を待たない。
小森館

根木屋敷 (ねぎやしき)
小森街道を挟み小森台地に長く集落が続く慶長二年浅利頼平領内村数覚書に『禰きやしき』が出てくるから中世浅利氏の支配地点であったことが知られる。七日市村まで続くかつて周辺の中心地と見られる。
根木屋敷

岩脇 (いわわき)
脇村落南稜の台地状にある岩脇館は浅利の臣岩脇小左衛門が居館し小猿部平野の南端の守りとなっている。台地上に東西空堀を抱え連郭式の居館で小猿部平野が望める。
岩脇館

妹尾館 (せおたて)
明利又街道の中間拠点小猿部川の河畔に大きな台地があり浅利の臣妹尾嘉左衛門の居館であった。妹尾館の規模は明利又地域では大きい方で妹尾太郎の名も知られている。現在も妹尾館の名がそのまま呼称されている。
妹尾館

横渕 (よこぶち)
七日市の入口から小猿部川河畔の傍台地に横渕集落がある。館は川を越えて囲の内にあるが小猿部川流域の囲の内は村支配に関連した土地を指しているようだ。浅利の臣、横淵甚兵衛の居館。
横淵館

品類 (しなるい)
品類川が小猿部川に合流する辺に品類館がある。浅利の臣、品類又助の居館で奥沢は自然杉の宝庫で長木沢と並んで浅利氏領の杉主産地だった。品類氏は益子氏という口伝もある
品類館

明利又 (あかりまた)
かつて浅利岐と呼ばれた明利又は比内浅利氏の居城とされている。しかし城館の様相は微塵もなく山城ではあるが避難砦としての性格で小猿部川を下り大覚峠で西木、戸沢への立寄場であったろう。五基の墓石は敗戦後の弔いとみていいだろう。春日神社には扇が祀られている。
明利又館

坊沢 (ぼうざわ)
坊沢高館ともいう。浅利の臣側衆長崎尾張が居館し荷上場の手前では重要な拠点と位置づけられた。長崎氏は浅利氏史料の一端であった長崎氏旧記を残したが今行方不明で散文で残るのみ。
坊沢館〔房沢)

前山 (まえやま)
前山川の左岸萩の岱に自然地形の丘を館にした多郭式の館は羽州街道の近くを守る。館主は浅利の臣、前山善助で前山の地名から郷士だったものか支配後の呼称かわからない。ただ陸路の防御では重要。
前山館

小勝田 (おがつだ)
小猿部川と米代川との合流地点の要衝を固める小勝田館は浅利の臣、小勝田傳兵衛の居館で当地の地侍だったのだろうか。中世埋没家屋が出土したことが知られ脇神支郷である今は小ケ田と呼ばれている。
小勝田館

蟹沢 (がにざわ)
蟹沢(岩沢)庄兵衛との関連の確証はないが薬師山同士を連絡する要衝地点ではあるが米代川河畔での城館は見あたらない。蟹沢氏は山田館居住だが地名との関わりはわからない。
蟹沢館

麻生 (あそう)
麻生館は浅利の臣浅(麻)生左馬之助の居館で小繋にほど近い。北流する阿仁川の米代川への合流地点で関所の感がある。阿仁地域の勢力を監視する重要な地点である。向岸には七座天神が鎮座している。
麻生館。 

小繋 (こつなぎ)
荷上場から次ぎの集落で裏山が薬師山で比内郡の狼煙(のろし)の傳着掛が居住したのが小繋館だろうが陸路よりも米代川の通運管理も兼ねていたのではないか。川舟が蛇行する難所だった。小繋三助が守る。
小繋館

荷上場 (にあげば)
荷上場館ノ下西側高地で館主は額田甲斐の居館で浅利氏との関係は定かではない。対安東氏への最前線で館平城という。応仁2年の年紀で扇田住浅利則章の棺が梅林寺で江戸期出土したが丁重さから浅利支配下といえる
館平館

高屋 (たかや)
鹿角郡と比内郡の境近くの丘陵地にあり浅利則頼の側室を出した豪族ではないかとみられるが、秋元氏系で比内浅利領とは最隣接地。
高屋館

高館 (たかだて)
高館は浅利の臣、工藤某の居城とされているが定かではない。秋田安東氏の家臣説もあり標高があり大館盆地がすべて見渡せる南面が拓け花岡沼館にほど近いためその不便さで後に利用されなかったかもしれない
高館

鬼ケ城 (おにがじょう)
鬼ケ城があったという伝説による鬼ケ台にはかつて浅利氏開基とする玉林寺(曹洞宗)の古址があった。その台地は鳳凰山の裾にあり南部領方面への街道をひかえ一の渡、二の渡と呼ばれる地名に沿って渓谷を擁し、いにしえよりかなりの要衝の地であったろう。

大葛 (おおくぞ)
大葛金山は戦国時代から浅利氏によって開発されていた。尾去沢に次ぐ古さで越後見立で金を採掘したものだろう。すぐ峠越えは南部領で浅利の臣佐藤與兵衛が守り今も佐藤姓がかなり多い。
大葛館

七ツ館 (ななつだて)
花岡古城七ツ森の形から七ツ館という。浅利定頼が居館としたとあるが現在信正寺の境内の近く天正2年12月28日山田合戦定頼討死する。花岡城はあるから隠居所か支城となるものか
七ツ館
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古代 贄の柵 (にえのさく
奥州合戦での藤原泰衡終焉の地でその場所の比定は確定していないが、比内郡の中心だった。二井田地区の近隣中台、陣の腰という高台が有力とみられるがいずれこの周辺であろう。新田館がどこかは不明
河田次郎
参考文献 郷村史略、秋田県の中世城館、出羽諸城の研究、秋田の城、秋田県史、等他数種
凡例 の呼称違いは浅利氏の当時の古文書表現から判断した。
注意 写真は必ずしも城館址を写していない箇所も有ります。関連地域としてご覧下さい。
分類は必ずしも行政区分ではありません体制上の防備地域で考慮しました。