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■Q:奥羽比内郡浅利氏の興亡と隆盛について
A:顕著な興亡と隆盛を史料においてわかるのは4度ほどの衰退である。
鎌倉以来、比内地方を領有した浅利氏は鎌倉幕府の傘下で着実に支配をしていたが
南北朝の動乱は回避出来なかった。当然南朝(宮方)と北朝(武家方)に分かれて日本中
が戦乱となり、奥羽の地も例外ではなかった。
当初浅利氏は宮方で戦ったが、建武3年足利尊氏に味方して行動しているが、
浅利六郎四郎清連が比内の新田彦次郎政持を退治しているからそれ以前は南部勢力
の軍門に下っていたことがわかる。
永禄5年浅利則頼の長子、則祐が安東氏に攻められ自害に追い込まれ大いに勢力が
衰え、異母兄弟の浅利勝頼が宗家を継ぐが彼も天正10年安東氏の謀略で暗殺され
浅利氏は崩壊の道をたどる。
嫡子浅利頼平はそのとき幼少で勢力の挽回はならず、いずこかに隠遁し勢力の恢復
を待った。天正18年頃安東氏支配の比内郡代官として再び台頭しはじめた浅利氏は
太閤蔵入地での物成(税金)問題で安東氏に果敢に対抗し自らの領土での自立性を
嘆願すべく、大坂に陳情しそこで敢えなく忙殺され浅利氏は完全に崩壊し比内郡は
秋田に併合され消滅する。
この間、浅利氏の比内還流は幾度も繰り返されたものだろうが、南部、津軽、安東氏の
領土の狭間でおおいに奮闘し武威を振ったものである。