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■Q:奥州比内郡への入部は------俗説と真相
A:浅利氏の比内郡入領は鎌倉時代に相違ない。奥羽地方の各地地頭を例に
見ても同様な状況であることに変わりは無い。とすれば戦国天文期に突然に
甲斐の国から移住という発想がどうしてでてくるのだろうか。
しかも津軽氏の後援を得て赤利又に入り、比内奪還という設定である。
そのことに疑問を抱かない諸氏はいかがなものか。津軽と赤利又は比内から
地理的に反対側である。また通説ではないものの、現在天文戦国期に甲斐か
ら比内郡の親戚を頼って浅利氏の一族が移住したという説が定着しようとし
ている事は大いなる驚異で、何故このようなことになったのだろうか。
まずこの天文戦国時の移住が何故おかしいかということを説明したい。
頼朝の吉書初めから文和3年(1354)までの浅利氏比内支配は史料で確認が
断片的ではあるが、一応出来ている。応永、永享、嘉吉、応仁、大永での
年譜概説で浅利氏の事象はその支配力に連綿性はないものの異例の蓋然はな
い。その上永正、天文期はすでに完全な惣領制の崩壊時期で例え家族であろ
うが肉親であろうが自分以外は他人に変わりは無い。
そういう時代に安易な遠い親戚を頼って甲斐から三百人を越える大集団が移
住して来て領土支配を移譲する発想は時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。
従ってこのような時移住があったとすればは平和的な移動ではなく、侵略による
強奪でなくてはならないし、もう一つ疑問は津軽氏の直接関与である。
この頃は津軽氏と浅利氏は六羽川(今の大鰐インター近く)で大きな合戦を
している。浅利氏と友好関係にあったのは浅瀬石(黒石)千徳氏らで、その
千徳氏らは津軽氏を必ずしも受け入れてはいない状況だった。
また鎌倉期の比内支配の体制は明らかではないものの、受領か遥任で代官か
縁者の移住はあったろうし、その後家族家臣団の移住は早い時期に行われた
に違いない。考えるにこの甲斐から比内郡への戦国移住説は鎌倉期の刷り込
みだったのではないだろうか。
戦国移住説の文書はすべてが江戸中期頃の歴史ブームの中で浅利氏を偲び作
られたもので、少くなくともこの部分の引用は考慮すべきである。
既成の歴史古文書であろうが、不整合は改正か史料批判をする勇気が必要で
ある。また風説の流布もあったかもしれない。浅利氏は大大名になる機会
を失している。甲斐源氏名族としての歴史的既成事実を卑弱なものにして次
期政権を盤石にする覇権が必要であれば、即席の勢力だったことにする必要
性があったろう。いずれにせよ永正、天文の甲斐からの大移動は愚説として
肯定できるものではない。この問題は系譜の不明な事にも起因するもので
あるが、系図の不連綿性は浅利氏の支配に何の影響も与えないことを確認し
ておくべきで浅利氏の崩壊は時代の流れで歴史の必然と考えられる。