*

*
■エピソード3------比内郡慶長の変とは
関ヶ原の合戦は東西対決だが近世の幕開けとしても語られる。
その直前の文禄から慶長元年にかけて比内郡ではある大きな事件が起きた。
会報の平成11年5月20日発行NO13号を参照していただけば支持表がある
から分かり易いが、事の発端は太閤検地に始まる太閤蔵入地における物成
(税)の納入騒動であった。
北秋田の支配は秋田安東氏の掌握の下、浅利氏が代官という曖昧な体制下
で安東氏と浅利氏の間で物成の多寡で合戦が始まるのである。
すぐに停戦命令が下り、その裁定が大坂表において慶長2年に行われること
となり、浅利氏惣領頼平が陳情のため上方へ上る。その評定にはそれぞれ
肝煎が付けられ、浅利氏へは浅野長政、安東氏へは佐々淡路守が配置された。
太閤蔵入地の上で起きた事件だから裁定に至ったのだろうが、浅利氏側につ
いた武将が大物が多かったから浅利氏有利の風評が流れ、安東氏はさぞかし
焦ったことだろう。その背後には後の関ヶ原合戦の色わけがされた如き結果
人事でまさにこの時すでに東西対立の縮図が出来ていたといっていい。
結局浅利頼平の変死でこの紛争はうやむやとなり、不問となる。
政治工作の応酬があった中でこの近世への幕開けとなる大きな事件の前で
こうした小さな出来事が歴史の歩みを静かに定義づけるものだ。
会報13号の慶長の変その3をご覧あれ。