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■エピソード2------白河関での事件
吾妻鏡の嘉禄二年頃の項に次ぎの事件が記載されている。
嘉禄二年(1226)白河の関袋辻において、若宮禅師ら博徒不善の輩が謀反を
企てたところに、遭遇した甲斐源氏 浅利太郎は結城七郎朝広と折節、路に
相逢うてこの乱を力合わせて鎮め若宮公暁の首を差し出す。(4/27〜5/4)
この浅利太郎はこの時、義成が板額御前を所望してから二十五年が経過しており
もしも二人の子であれば、この頃は立派な若武者で浅利氏の嫡子にふさわしい
願望どうりの武人に成長しているであろうことが推測される。
同年五月十六日 白河関での陰謀の成敗をめぐりその手柄において結城七郎と
浅利太郎の争論の儀、判決下る。この判決の内容は吾妻鏡に詳細を伝えていない
が、その裁定後、吾妻鏡に登場する人名を調べると結城七郎某は出てくるが
浅利某はこの記事を境に鎌倉幕臣としての名が吾妻鏡には一切登場しないのである。
ただ、白河関の周辺地に浅川という地名があり、その地の伝承に浅利知義との
関連を窺わせるものがある。記録的真証は定かではないが、この地に浅利氏の
かすかな伝承があることは非常に興味深いが、今後の検証を待ちたい。