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■エピソード1------勇婦 板額(飯角)御前
現在の新潟県中条町に巴御前に並ぶ女丈夫の 板額御前(坂額) は桓武平氏
余五将軍(維茂)三世の孫城九郎資国の女、小太郎資盛の叔母が板額御前で
ある。板額(坂額)というは飯角という地名の音当て字であろう。
建仁元年(1201)将軍頼家が、資盛の叔父長茂を平家再興を企てた嫌疑によ
り捕らえて殺したため、資盛はその仇を報いようと、越後鳥坂に塁を築いて
乱を起こした事件に登場する。
同年四月 越後の城小太郎資盛が北国の輩を集め 源 頼家に反逆を企てた。
その中に資盛の姨母(おば)の板額(坂額、盤額とも)御前をして
【六条判官源為義ノ三男木曾三郎左衛門源頼忠ノ一女ニシテ信州木曾ニ生レ
女丈夫ニシテ力強ク父死後従兄旭将軍木曾義仲ニ仕ヘ義仲ノ愛妾巴御前ト共
ニ其ノ武勇名高シ義仲死後義成ニ嫁ス】と号し、女ながらに豪のもので
なかなか城を落とせなかった。
『女性の身たりといえども、百発百中の芸ほとほと父兄に越ゆるなり。』
時に信濃国住藤沢四郎清親が城の裏山から板額御前を射て倒し乱平定す。
六月二十八日 板額御前を 頼家公が観たいとの所望で参上すべく、侍所に
向かうが傷未だ平減に及ばずとも、その態度いささかもへつらう気心なし。
建仁元年六月二十九日 阿佐利與一義遠、板額御前を預かりたいと乞い
申し上げて曰く「ただ同心の契約をなして壮力の男子を生み朝廷を護り
武家を扶けたてまつらんがためなり。」と云々
しかし頼家、どうしてこれほどまで 板額を乞うものか、よくよく心の武きを
想えば人好きずきだと、義遠の所存を許した。
その場の御家人、しきりに嘲笑したが義成、板額を預かり甲斐に下向すと。
以上は吾妻鏡からの抽出であるが、かくして浅利与一義成(遠)は勇婦人
板額御前を受領の許可を得、命乞いをしたのである。
時に義成 五十三才 とかなりの高齢であり、板額の素性に託し彼女に浅利を
嗣ぐ元気な男子をと望んだのであろう。
甲斐浅利系図系譜の四男、友成が板額との子ではないだろうか。
どうもこのとき義成は四人の男子に先立たれている為、その想いは尚更であ
ったろう。しかもこの吾妻鏡の表記では醜女(しこめ)顔の板額御前を嘲笑した
かの如くあるが、一説には美人の誉れ高いと伝歴されており浅利与一義成が
板額を身請して甲斐に隠居する記述は興味深い
体格のいい板額御前へ子孫繁栄のための義成の思い入れが偲ばれる。