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■Q:比内郡とは
A:比内(ヒナイ)とはかつて火内、肥内とも表記されアイヌ語のPi-naiが語源とされ、
それがヒナイと変遷したとされている。初めてその名が資料に見られるのは、
元慶2(878)世にいう元慶の乱が起こり、その記録が『三代実録』に登場する。
比内郡の建置は1080年頃から1100年(遠藤、入間田氏説)頃ではないか
とされているが、頼朝が奥州平定成る河田次郎事件の頃までは平泉傘下で
比内郡地方は陸奥国の一部としての認識が強かった。
出羽国の比内郡としては浅利氏が入領するまでは依然として判然とした
明記はないが、戦国天文頃から浅利氏の勃興と共に比内郡のかたちが
浮き彫りされていく。
最大の比内郡の領域は現在の比内町、大館市、鹿角市、田代町、鷹巣町、二ツ井町
合川町、を含めた広域にわたり支配したことがわかっているが、数度の領域侵犯を
常に繰り返し、繰り返され安定した領土では無かった。
侵略される土地は、それだけ魅力があって、戦乱での犠牲を計算しても有り余る
利益をもたらすものであったからだろうが、逆に農業生産性が低かったか
またはその生産利潤を生み出す構造を創り得なかった地理条件、政策の貧困に
あったのかも知れない。
慶長3(1598)の浅利氏の没落により500余年続いた比内郡も浅利氏と共に
終焉し、比内郡は消滅して秋田郡へ併合される。