今おもしろいテリトリー
秋田県の北東部、現在の大館市(比内町、田代町)、北秋田市(鷹巣町、合川町周辺)や能代市(二ツ井町)まで、時には鹿角市周辺をも包含する、かつての比内郡地域は奈良、平安の昔から秋田杉、金山に代表される天然資源と自然に恵まれた山間の静かな古鄙である。


壇ノ浦源氏浅利与一義遠(目貫)
当地域は、いにしえ鎌倉以前は平泉藤原氏の勢力下であったとみられ、吾妻鏡に登場する奥州合戦終末の幕引場で、平泉藤原氏の泰衡の暗殺に手を下したとされる河田次郎が居住していた贄の柵があり、要衝の地域であった。
顕彰会創立の経緯
奥州合戦終了後、比内郡は壇ノ浦の遠矢(平家物語)で勲功を挙げた甲斐源氏、浅利与一義成(山梨県西八代郡豊富村浅利郷)の論功行賞で所領地となった。ここから比内郡に覇権を握った浅利氏は鎌倉、室町時代を経由して江戸幕府成立直前の慶長三年まで続き、北辺の小土豪として戦国の覇を競う一員となったが、大名成立期を前に瓦解する。

この鎌倉から江戸までの四百年間にわたり比内郡に君臨した一豪族浅利氏については地元でも認識が薄く、その多くを知る人が少ない。忘れられかけた浅利氏の歴史保存、事績顕彰と先祖の威徳を偲び、学び、交流する会が秋田浅利会(浅利氏顕彰会)として組織され、平成八年から始動し、現在全国各地に多くの会員が参加している

壇ノ浦平氏新居紀四郎(目貫)
歴史的位置付け
比内郡の興味深い全国レベルのターニングポイントは、贄の柵での出来事で古代から中世武家政治の幕開けを決定づけた場所であり、さらに注目すべきは文禄から慶長三年までの浅利、安東氏との物成騒動が、その直後の東西関ヶ原合戦のすみ分け、陣勢を如実に具現化したことにある。言い換えれば『古代から中世へ』『中世から近世へ』の幕開けの序章となった場所ということが言え、おおいなる歴史の宝庫と言っても過言ではない