贄の里看板

中台陣の腰台地
遠望
河田次郎 (かわた の じろう)
平安末期  〜文治5年(1189)
 『吾妻鏡』に初見の比内郡首領、贄の柵を守り
奥州合戦には参加しなかった。平泉藤原傘下
であったことは確かであるが、大河次郎兼任ら
と去就が注目され、藤原泰衡が比内郡贄の柵に
逃亡して来たことにより運命が決まる。
泰衡を暗殺して、勲功を頼朝に求めたが、主人
を裏切った八虐の刑に処断される。由利八郎維平
と対比され、河田次郎は極悪非道の扱いを受け
るが、その顛末は不可思議な問題点が多い。
贄の柵跡が果たしてどこであったか比定できる
場所がわからないのは残念なことだが、目下
二井田周辺を発掘中で、その結果が期待されて
いる。東北大高橋富雄教授は中台陣の腰台地の
高台を有力視しているが、元禄年間犀川の氾濫
で水没したという説もある。
Copyright(C) OdateIJIN Etado All rights Reserved.