戦国、天文年間浅利則頼の時代に比内郡全盛期を迎える。比内領には多くの支城を抱え、防備に備える。西は現在の二ツ井荷上場、東は上津野(鹿角)へ勢力を伸ばした。ただ天文19年領主則頼が他界するや、たちまち長子則祐と次子勝頼とで主導権争いが始まる。
比内長岡城跡
浅利八幡神社
永禄5年長子則祐が檜山安東氏の攻撃を受けて長岡にて自害、勝頼の時代となるが天正10年勝頼も味方の寝返りで謀殺され比内浅利氏は致命的な崩壊を迎えるのである。嫡子頼平は幼少で比内奪回を心に誓う。大館の城は天正10年以前に浅利勝頼が城割したと伝えられている。