古代終焉の場
河田次郎の詳しいことについては事件が800年前のことであり、今はそのすべを知るよしもない。吾妻鏡の記述によれば、平泉藤原氏数代の郎党とされたが彼は奥州合戦には参戦していない。それにもかかわらず鎌倉軍に追われた藤原泰衡は頼りになるかわからない比内贄の里、河田氏のもとへ身を寄せる。ここで問題の行動が起こる。泰衡の行方を探索していた鎌倉軍の宿舎に投げ文が到来する。その内容は実に不可解なのである。
大館市二井田贄の里案内板
吾妻鏡の内容を簡単に要約すると、藤原泰衡が頼朝に命乞いを要求したもので返事を比内郡贄の里周辺に立て札してくれ、というものであったらしい。泰衡自身が書いたものとされているが、自分の隠れ場所をわざわざここですと知らせる訳がない。河田次郎が手柄を想定して書いたものではないかという推測も多いが、これも災いを自分のところへ自ら引き寄せるはずはない。泰衡自害の話もここまで逃げてきた意味が全くないから素直にうなずけない。結局河田次郎が主君を裏切った事に集約されているが、奥州合戦にまったく参戦しなかった河田氏に敢えて救いを求める泰衡の逃避行は河田氏を信頼した行為であって通説を覆す十分な要素を含んでいる。

それは奥州合戦の直前、鎌倉頼朝は泰衡に対し、弟の義経を交換条件で間接的に高舘で討たせたがその泰衡を敢えて攻めた。だから泰衡の首を差し出した河田を許す訳にはいかないという吾妻鏡の論法になっている。
つまり、八虐の罰を与えられた河田は冤罪を背負ったのではないか?という疑問がここでは残っている。だからこの投げ文は作為的に設定されたものであって、鎌倉軍との引き渡し折衝(交換条件があって)で一手に罪を被ったのかもしれないという可能性を残している。従って吾妻鏡の記述だけは信頼できないものがある。
またこの贄の里の案内板には河田次郎の俗名を行文としているが、田河行文との混同で河田次郎は行文ではない。かつての贄の柵の場所については異論があって陣の腰の台地を比定するものが多いが、800年前の米代川は暴れ川で河岸堤防はまったく無く、現在の流域から比べてかなり移動していた可能性が考えられる。
いよいよ中世の始まり